Diary ~あなたに会いたい~
 まるで遠い日の記憶を語るような、
静かな声だった。

 どうしてか、目の前にいる彼女が、初めて
見る知らない女のように見えて、俺は息を
止めていた。

 だから、彼女が顔を上げ、眉を顰めるまで、
俺は声を発することができなかった。

 「……なに?」

 「……え?ああ」

 黙ったまま、じっと自分を見つめる俺を
見つめ返して、きつく唇を結ぶ。怒ったよう
にさらに眉間のシワを深めて見せたのは、
たぶん照れ隠しだろう。
 俺を捉えて放さない眼差しは、変わらず
優しかった。
 俺は止めていた息をゆるやかに吐きながら、
言った。

 「いや……月を見て儚いなんて、思ったこと
もなかったから。そんな風に感じるものなのか
と、少し驚いてね。なるほど。太陽がなければ
月は輝けない、か。その話、本か何かで?」

 またひとつ、俺が知らなかった彼女の一面を
知れば、自ずと興味が湧く。
 
 ともすれば、勝ち気で自由奔放な女性に
見えてしまうであろう彼女の本質は、実は
誰よりも純粋で、繊細なのだ。

 でなければ、月を見て儚いなどと……
感じるわけがない。
 俺は笑みを深め、ゆづるの目を覗き込んだ。
 けれどその瞬間に、視線はかわされた。
 逸らされた眼差しは微かな熱をもって、
彼女の手の中のスケッチブックに向けられて
いる。少しの間をおいて、彼女は静かに口を
開いた。

 「聞いたのよ。むかし……あの人に」

 指がスケッチブックの画を優しくなぞる。

 その指が触れているのは、
「俺」か「あの人」か。

 考えた瞬間、胸にずきりと痛みが走った。
 それはずいぶん、懐かしい痛みだった。

 俺はふむ、と小さく頷きながら、努めて自然
に「あの人」と呟いた。

 無論、その声は彼女の耳に届いていない。

 「月が好きな人だったから。昼も夜も、よく
二人で月を探して眺めていたの。とくに半月が
好きだったわ。今日のような、空から弓を射っ
ているような半月が。私は月に似ているとか、
可笑しなことも言ってた。月なんて、明るい
太陽に比べたら、冷たくて淋しいイメージしか
ないのに……」

 そこまで言って微笑すると、彼女は、はっと
して顔をあげた。
 そうして、表情を止める。
 バツが悪そうに肩を竦め、唇を舐めて見せた
のは、もしかしたら、俺が傷ついたような目
をしていたからなのかも知れない。

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