離婚するので、どうぞお構いなく~冷徹御曹司が激甘パパになるまで~
 確かにここ最近立ちくらみが激しかったこともあり、俺はこれ以上社員を不安な気持ちにさせてはいけないと思い、提案に従うことにした。
「分かった。少ししたら戻る」
「場所は分かりますか。ご案内します」
「いや、大丈夫だ。ありがとう」
 ちょうど花音とも控室で会う約束をしているし、このあたりで休憩を取るのはいいかもしれない。
 俺は取引先に会釈をしながら会場を出て、ひとり控室に向かった。
 騒がしい会場を抜け、エスカレーターで二階に上がると、俺だけに取ってもらっていた控室が見えてきた。
 しかし、部屋の前に人影が見えて、俺は立ち止まる。
 花音ではないことは、すぐに分かった。
「代表、ご無沙汰しております」
「鈴鹿……、来ていたのか」
「社員の参加は任意でしたから」
 黒い髪の毛をアップスタイルにして、いつものようにピシッとタイトめなスーツを着こなした彼女が、なぜかドアの前で俺を待っていた。
 俺は彼女と目も合わせずにドアノブに手をかけると、控室の中に黙って入ろうとする。しかし、彼女は強引に部屋の中に押し入ってきた。
 さすがに焦った俺は、すぐに部屋から出そうと声をあげる。
「鈴鹿、異動のことはしっかり説明したはずだ。君のためでもあると」
「代表、お願いです。もう二度とあのようなことは言いませんので、おそばに置いてください」
 鈴鹿は九十度の角度で頭を下げ、その場から動かない。しかも、微かに肩が震えている。
 さすがに無理やり追い出す気にはなれず、一旦距離を取って話を聞くことにした。
 俺は近くのソファーに座ると、ドアの前で頭を下げたままの鈴鹿に話しかける。
「私情を聞いてしまった限りは、戻れない。分かってほしい」
「お願いします……。代表とお仕事をする日々が、私の全てなんです」
「仁の会社でも、君の能力は発揮できるはずだ。君が秘書の次に希望していたマーケティングの部署だ」
「どうかあの日のことは、忘れて頂けませんでしょうか」
「……鈴鹿」
 困り果てたように彼女の名前を低い声で呼ぶと、鈴鹿は長い間沈黙して、ようやく顔をあげた。
 アイシャドウが涙で流れて、薄いブルーが顎まで伝っている。
 ハンカチを渡してあげようと思ったけれど、この行動で彼女に何かを期待させてしまったら可哀想だと感じ、俺は見て見ぬふりをした。
 しばらくして、鈴鹿は振り絞るように声を出す。
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