可愛すぎてつらい
第一章
1.落とし物
それを見つけたのは偶然だった。
庭園のベンチにポツンと置かれた小さな手帳。チェルシーが空を見上げると昼間だというのに薄暗く、暫くすると雨が降ってきそうだ。このままでは濡れてしまうとチェルシーはそれを手に取り、屋敷へと戻った。
「一体誰の忘れ物かしら?」
こげ茶色の手帳カバーには記名がなかった。さすがに中を見るのも憚られて、とりあえず執事のハリスにでも渡せばいいかと考えながら玄関ホールを進もうとして足を止める。
「あら?」
この屋敷の主人である、フレッドが玄関ホールから伸びる階段の先でウロウロとしているのが視界に入った。本来ならばあまり関わりたくはないのだが、いつもと違って慌てた様子に、思わずチェルシーは声を出してしまったのである。
「フレッド様?」
小さな声だが、しかし吹き抜けのホールは声が響く。声に気付いたフレッドは、はたと気づいて居住まいを直し、背筋を伸ばして階段を下りてきた。いつものような無表情で。
チェルシーは些か緊張しながら、フレッドが階段を下りるのを待った。
「どうなさいました?お出掛けされるのでは?」
「あ、いや、すぐに出掛ける」
じゃあさっきは階段の上で何をされていたのですか……?
とは言わなかった。チェルシーは彼と気安く話す間柄ではない。
——夫婦ではあるが。
チェルシーから歩み寄ろうとした時期もあった。しかし親たちの決めた家と家の縁談、そこに心が伴うにはお互いの努力が必要で。
幼い頃には何度も顔を合わせているらしいが10年以上昔のことだ、そういう男の子の存在は覚えているが、どんな性格でどういう関わりをしたかなんて幼かったチェルシーは覚えてはいなかった。だからここまで夫となったフレッドが取っ付きにくいとは思わなかったのだ。
ある日突然、そう、この屋敷に嫁いできてから1ヶ月くらいでチェルシーは諦めたのだった。この人と仲良くするのは無理だわ、と。
チェルシーの夫であるランサム伯爵家の若き当主、フレッド=ランサムはスラリとした体躯に整った容姿をしているが、常に無表情か不機嫌そうに眉根を寄せていることが多い。見るからに冷徹な印象を受けるし実際の有能さも相まって、彼と相対すれば温度が低く感じられると、周りからは『氷伯爵』と呼ばれている。しかし本人もその呼び名を気にするふうもない。
アッシュがかったショートヘアの薄茶色の髪は、目の下ほどの長さの前髪が真ん中で分かれていて、少し露わになっている額の中心に常に刻まれている眉間の皺が、対する相手に取っ付きにくさを与えている。
そもそも彼は、12歳になると王都にある騎士団に所属し、縦社会に身を置いていた。そこは実力主義であり、愛想は特に必要とされなかった。
元々の表情の乏しさが騎士団で磨きがかかり、20歳のときに父が亡くなり世襲して伯爵としての生活をすることになっても、そうそう変えられるものでもなく。
夜会でもニコリともしない、見た目に寄ってきた美しい令嬢相手にも近寄ることすら許さないその様子に、男色の噂も出たほどだ。しかしそれは22歳でチェルシーと婚約して払拭された。彼女本人もその噂は聞いたことがあり、婚約の話に難色を見せたが所詮は男爵家。伯爵家直々の申し出に首を縦に振るほかなかった。
それに貴族とはそういうもの。例え無表情な氷伯爵が旦那様だとしても、肥えて脂ぎった中年の男や明日をも知れぬ老人に嫁ぐよりかはよっぽど幸せだ。
それに実家の男爵家一同はとても喜んでくれた。
だから多少相対するチェルシーを見下ろす視線が鋭かろうが、会話のキャッチボールも続かなくても、清潔でスタイルも良い美丈夫のほうが何倍もマシというもの。それに会話がないくらいなので、くどくど言うわけでもないし、欲しい物を言えば与えてくれる。
かと言って視察や仕事以外で家を空けることもないので、他所に女を囲っているわけでもなさそうだ。
要するに無口で無表情、生真面目で面白みのないのがチェルシーの夫、フレッドなのである。
どうってことはないのだ、愛がないくらい。未だ思春期特有の潔癖さを持つチェルシーは、嫌悪感が全くないことのが大事だと言っている。
18歳のチェルシーは初恋すら分からないままに人妻となってしまった。
味気ない生活に一抹の寂しさはあれど、いつかの夜会でどこぞの令嬢たちから聞こえてきた、
「結婚してから、世継ぎさえ産んでから恋愛すればいいのよ」
という言葉にひどく感銘を受けた。なので自分にもいつか素敵な人が現れるかしら、と夢見ていれば愛のない結婚生活でもそこそこ幸せだった。
ランサム家のお屋敷の使用人はみな働き者で、年より幼くみえるチェルシーに優しくしてくれる。それにフレッドの母親だって、嫁のチェルシーを娘のように可愛がってくれる。
「困ったことがあれば何でもいいなさい。分かりにくい息子でごめんなさいね」
など格下の家から嫁いで来たにもかかわらず、良くしてくれるのだから随分と恵まれている。流行りの小説や演劇で嫁いびりは鉄板なので、覚悟を決めてきたチェルシーは初め肩透かしをくらったものだ。
完全にアウェーな身としては有難いことこの上ない。事実チェルシーの祖母と実母の仲はあまり良くなかったから、完全にそういうものだと思ってしまっていた、というのもある。
だから余計にフレッドのそっけない対応だけが際立ってしまうのだろう。今の悩みはそれくらいだなんて贅沢な話だ。
けれど結婚してもうすぐ半年。いくらチェルシーが若くて純粋でも、好かれているというより、寧ろ邪魔だと思われているであろう人にすり寄っていけるほど強くもなかった。初めはそれなりに何度も話しかけたり努力していた自分を褒めてやりたい。
それにいつかは自分の子の父になるかもしれないフレッドだが、恋愛相手としては早々に除外してしまっているので、日々の生活に於いて彼に対して必要以上に深く関わる気にもならないのである。
——だから出掛けの挨拶も無しに、チェルシーの顔を見ずに傍を通り抜けようとしたフレッドが、息を飲んで立ち止まったことに気づきもしなかった。
庭園のベンチにポツンと置かれた小さな手帳。チェルシーが空を見上げると昼間だというのに薄暗く、暫くすると雨が降ってきそうだ。このままでは濡れてしまうとチェルシーはそれを手に取り、屋敷へと戻った。
「一体誰の忘れ物かしら?」
こげ茶色の手帳カバーには記名がなかった。さすがに中を見るのも憚られて、とりあえず執事のハリスにでも渡せばいいかと考えながら玄関ホールを進もうとして足を止める。
「あら?」
この屋敷の主人である、フレッドが玄関ホールから伸びる階段の先でウロウロとしているのが視界に入った。本来ならばあまり関わりたくはないのだが、いつもと違って慌てた様子に、思わずチェルシーは声を出してしまったのである。
「フレッド様?」
小さな声だが、しかし吹き抜けのホールは声が響く。声に気付いたフレッドは、はたと気づいて居住まいを直し、背筋を伸ばして階段を下りてきた。いつものような無表情で。
チェルシーは些か緊張しながら、フレッドが階段を下りるのを待った。
「どうなさいました?お出掛けされるのでは?」
「あ、いや、すぐに出掛ける」
じゃあさっきは階段の上で何をされていたのですか……?
とは言わなかった。チェルシーは彼と気安く話す間柄ではない。
——夫婦ではあるが。
チェルシーから歩み寄ろうとした時期もあった。しかし親たちの決めた家と家の縁談、そこに心が伴うにはお互いの努力が必要で。
幼い頃には何度も顔を合わせているらしいが10年以上昔のことだ、そういう男の子の存在は覚えているが、どんな性格でどういう関わりをしたかなんて幼かったチェルシーは覚えてはいなかった。だからここまで夫となったフレッドが取っ付きにくいとは思わなかったのだ。
ある日突然、そう、この屋敷に嫁いできてから1ヶ月くらいでチェルシーは諦めたのだった。この人と仲良くするのは無理だわ、と。
チェルシーの夫であるランサム伯爵家の若き当主、フレッド=ランサムはスラリとした体躯に整った容姿をしているが、常に無表情か不機嫌そうに眉根を寄せていることが多い。見るからに冷徹な印象を受けるし実際の有能さも相まって、彼と相対すれば温度が低く感じられると、周りからは『氷伯爵』と呼ばれている。しかし本人もその呼び名を気にするふうもない。
アッシュがかったショートヘアの薄茶色の髪は、目の下ほどの長さの前髪が真ん中で分かれていて、少し露わになっている額の中心に常に刻まれている眉間の皺が、対する相手に取っ付きにくさを与えている。
そもそも彼は、12歳になると王都にある騎士団に所属し、縦社会に身を置いていた。そこは実力主義であり、愛想は特に必要とされなかった。
元々の表情の乏しさが騎士団で磨きがかかり、20歳のときに父が亡くなり世襲して伯爵としての生活をすることになっても、そうそう変えられるものでもなく。
夜会でもニコリともしない、見た目に寄ってきた美しい令嬢相手にも近寄ることすら許さないその様子に、男色の噂も出たほどだ。しかしそれは22歳でチェルシーと婚約して払拭された。彼女本人もその噂は聞いたことがあり、婚約の話に難色を見せたが所詮は男爵家。伯爵家直々の申し出に首を縦に振るほかなかった。
それに貴族とはそういうもの。例え無表情な氷伯爵が旦那様だとしても、肥えて脂ぎった中年の男や明日をも知れぬ老人に嫁ぐよりかはよっぽど幸せだ。
それに実家の男爵家一同はとても喜んでくれた。
だから多少相対するチェルシーを見下ろす視線が鋭かろうが、会話のキャッチボールも続かなくても、清潔でスタイルも良い美丈夫のほうが何倍もマシというもの。それに会話がないくらいなので、くどくど言うわけでもないし、欲しい物を言えば与えてくれる。
かと言って視察や仕事以外で家を空けることもないので、他所に女を囲っているわけでもなさそうだ。
要するに無口で無表情、生真面目で面白みのないのがチェルシーの夫、フレッドなのである。
どうってことはないのだ、愛がないくらい。未だ思春期特有の潔癖さを持つチェルシーは、嫌悪感が全くないことのが大事だと言っている。
18歳のチェルシーは初恋すら分からないままに人妻となってしまった。
味気ない生活に一抹の寂しさはあれど、いつかの夜会でどこぞの令嬢たちから聞こえてきた、
「結婚してから、世継ぎさえ産んでから恋愛すればいいのよ」
という言葉にひどく感銘を受けた。なので自分にもいつか素敵な人が現れるかしら、と夢見ていれば愛のない結婚生活でもそこそこ幸せだった。
ランサム家のお屋敷の使用人はみな働き者で、年より幼くみえるチェルシーに優しくしてくれる。それにフレッドの母親だって、嫁のチェルシーを娘のように可愛がってくれる。
「困ったことがあれば何でもいいなさい。分かりにくい息子でごめんなさいね」
など格下の家から嫁いで来たにもかかわらず、良くしてくれるのだから随分と恵まれている。流行りの小説や演劇で嫁いびりは鉄板なので、覚悟を決めてきたチェルシーは初め肩透かしをくらったものだ。
完全にアウェーな身としては有難いことこの上ない。事実チェルシーの祖母と実母の仲はあまり良くなかったから、完全にそういうものだと思ってしまっていた、というのもある。
だから余計にフレッドのそっけない対応だけが際立ってしまうのだろう。今の悩みはそれくらいだなんて贅沢な話だ。
けれど結婚してもうすぐ半年。いくらチェルシーが若くて純粋でも、好かれているというより、寧ろ邪魔だと思われているであろう人にすり寄っていけるほど強くもなかった。初めはそれなりに何度も話しかけたり努力していた自分を褒めてやりたい。
それにいつかは自分の子の父になるかもしれないフレッドだが、恋愛相手としては早々に除外してしまっているので、日々の生活に於いて彼に対して必要以上に深く関わる気にもならないのである。
——だから出掛けの挨拶も無しに、チェルシーの顔を見ずに傍を通り抜けようとしたフレッドが、息を飲んで立ち止まったことに気づきもしなかった。
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