可愛すぎてつらい

13.提案

「とりあえず、その持ってきた書類の方が重要だ……ぷぷ……から」
「……」
「資料の方は、また届けてくれてばいい。先にこちらに目を通しておこう……ぶっ」
「ご迷惑をおかけしました。……それから、思いっきり笑っていただいて構いません」

 フレッドが言うが早いか、グレンはワハハと遠慮なく目に涙を浮かべて笑う。正直いたたまれないが、まだ相手が知った仲である彼で良かったというべきか。

 ——こんな失敗は初めてだ。
 どうしてなんて分かっている。昨晩のチェルシーが可愛すぎたせいだ。いや、彼女のせいにしてはいけない。チェルシーの可愛さに我慢がきかずに箍が外れた己のせいだ。

 結婚してくれただけで十分だったのに。

 初夜からこちら、なんとかチェルシーに嫌われぬよう、負担をかけぬように最低限の触れ合いで我慢をしていたのだ。ちっとも足りないけれど。

 おそらくそれがいけなかったのだろう。挙句の果てに寝坊に寝ぐせに忘れ物だなんて。

「……それでは直ぐに本を届けに参ります」
「ああ、今日はわざわざご苦労さん。ふふっ、いや、俺は嬉しいよ。お前も普通の男だったんだな」

 未だに笑いの治まらない元上司に構わず、鞄を閉じて立ち上がる。するとコンコンとノックの音がしてそちらを見た。

 来客中だというのに……緊急事態だろうか?

 どうもここに来ると、己が未だに騎士団に身を置いているように思ってしまう。こういうときのノックは大概が火急の案件だからだ。フレッドは騎士団時代に染みついた癖で些か緊張を纏う。

「グレン団長、キースです。フレッドの忘れ物を屋敷の方に持って来ていただきました」

 しかし扉の外からはキースの声がして、二人は顔を見合わせる。扉の外からかけられた言葉にニヤリとしたグレンに対し、フレッドはすぐに顔を背けたが。

 どうやらハリスが気付いて使用人に届けさせてくれたのだろう。有能な執事に、表情は変えぬまま心の底から感謝する。

「ちょうど良かった。入っていいよ」

「失礼しまーす」

 キースの間延びした返事に苦言を呈そうとしたフレッドだが、彼の後ろの人物を見て開きかけた口をポカンと開けた。

「チェルシー……?」

 昨晩遅くまで温もりを分かち合っていた愛妻がそこに居たのである。


 かつての部下のあまりにも珍しい表情に、グレンのようやく治まった笑いがまたしてもぶり返してしまった。しかしその声は驚いて固まっているフレッドには届かない。

(はぁ、今日も変わらず可愛らしい……。いやいやいや!じゃなくて!)

 グレンとチェルシーが挨拶を交わしている間も、フレッドの脳内は騒がしかった。

「……どうしてここに?」
 しかしそれらは言葉になることはなく、らしい口調と質問だけが辛うじて出た。

「皆さまお忙しいらしく、私が遣いに参りました」

 なるほど、母親や執事のしたり顔が目に浮かぶ。凡そ彼らの差し金だろう。

「こちらがお預かりした御本です」
「……すまない」
「あ、あの……フレッド様」
 頬を染めて言い淀むチェルシーは、最高に愛らしい。フレッドは胸がキュウと締め付けられた。こんなことは日常茶飯事だが一向に慣れない。いつか心臓が過労働で動きを止めてしまわないか心配だ。しかし同時にチェルシーが自身の妻であるという幸せで、寿命は伸びているのでイーブンだろう。

 そんな愛らしいチェルシーは、あろうことかフレッドのジャケットの裾をツンと引いた。存在だけで可愛いのに仕草まで可愛いとは。さらには口元に手を当てて背伸びをし、耳元に顔を近づける。

 内緒話だ。

 日中にこんな接近は有り得ない。というよりも、チェルシーからの接近は今まであっただろうか?

 ふわりと甘い香りと共に吐息が耳にかかり、グウゥと喉で空気が押しつぶされた。聞こえていやしないだろうかと不安になる。

「あの、御本に挟まってた、えっと、私の小さい頃のお手紙は、屋敷のフレッド様の机に」

 チェルシーの囁きを堪能しながら、彼女の話を整理をする。脳内に映るのは大切に取っておいた宝物。そうだ、今回の領境の件は非常に面倒な事案で、書類仕事中の心の平安にすぐに見れるよう机の上に置いてあったのだ。たぶんそれを朝の大慌ての際に挟んでしまったのだろう。そしてよりによってそれを忘れてきてしまった、と。

 導き出された答えに辿り着き、慌ててチェルシーのほうを見れば、ごく近くに彼女の顔がありドキリと心臓が跳ねる。

「「!!」」
 見開かれた深いエメラルドグリーンに自分の間抜けな顔が映っていた。

「あ、いや、分かった。感謝する」
「お、お役にたてて光栄ですわ」

 二人して同時に顔を背けて、手の感触だけで本の受け渡しを完了する。
 内緒話をしたかと思えば、ワタワタとしている目の前の夫婦にキースとグレンは驚きを隠せない。主にフレッドの態度に。

 あのいつも冷静で眉一つすら動かさない男が、妻に何かを囁かれて、顔を見合わせ慌てている。チェルシーはその様すら可愛らしいが、男だとはっきり言って不気味である。

「何か大事件の前触れかな?」
「いや、これが大事件なんじゃないですか?」
「確かに……」

 これが大人の、しかも夫婦の反応だろうか。これは10歳くらいの、男女の性差の違いを意識し始めた、思春期に差し掛かった頃合いの少年少女のそれだ。

 ヒソヒソする、かつての上司と同僚に気付いたフレッドは、コホンと咳払いをしてジャケットの襟を正した。別に乱れてはいないが、心の乱れを正そうとする深層心理が働いた。

 ただ、幸いだったのは、チェルシー(それともハリス)が機転を利かせて、手紙を置いてきてくれたということだ。羞恥の意味でもだが、他人に見せたくはない大切な宝物なのだ。

「フレッド様はもうお帰りですか?」
「そうだね。チェルシー殿が持って来てくれた本で少しだけ確認させてもらえればいいから、二人で一緒にデートしながら帰るといい」

 まだ帰れない、とフレッドが言いかけた言葉に被せてグレンは言う。気軽に言ってくれるがフレッドは焦った。こんな面白味もない男と出歩いても楽しいことなどないだろう。それに気の利いた店や、会話ができる気がしない。チェルシーのほうから願い下げのはずだ。

「え?いいんですか?」

 しかし返ってきたのは意外な返事だった。
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