再会の先にあるもの
「え?お兄さん?」
「そうなの。お父さんの長期出張にお母さんが付いて行ったって話したよね?」
「うん、覚えてるよ」
「お母さんがそう決めたのも、お兄ちゃんが帰ってきたからなんだよね」
「え……」
羽菜の心臓がドキリと音を立てた。莉子のお兄さん……、それは羽菜の初恋の相手であった。アルコールでフワフワとした頭で、リオ君のことを思い出す。そもそもその彼が気になったきっかけである人物なのだから。
「ねぇ、私、変じゃない?」
「やだ!何いきなり緊張し出すのよ」
「……だって!莉子のお兄さん、素敵だったもの」
流石に親友とはいえ、その兄に恋心を抱いた事は言えなかった。羽菜の言葉に「んー、普通でしょ?」と莉子は軽く流す。
もう元カレのこととか遥か忘却の彼方だ。とにかく手汗がすごい。もう一度鏡で確認しようと鞄に手を入れたところで、パァンと軽くクラクションが鳴らされた。
「あ、来たきた」
ヘッドライトの逆光で車内の様子がよく見えないが、白っぽい車が道路わきに停車した。暴れ出す心臓の辺りを抑えながら、車に駆け寄る莉子の後を追う。
「お待たせ」
助手席のガラスが開いて、優しげな男性の声が聞こえた。
「早かったね!ありがとう!」
「早めに連絡くれたから、いつでも出れるように待ってたよ」
ごめんねー、と言いながら助手席のドアを開ける莉子。乗り込むかと思いきや、羽菜に乗るよう手で促すではないか。
「え!私、後ろでいいよ!莉子乗りなって」
「この車後ろ狭いから、前に乗ったほうがいいよ」
「そうだね、前の方が広いから。羽菜ちゃん、どうぞ?」
両手を小さく振って遠慮する羽菜だったが、運転席からそう言われれば従う他なかった。
「お邪魔します……」
乗り込む時にチラリと運転席を見れば、初恋のお兄さんの面影を存分に残したままの男性がニッコリと微笑んでいた。
右手と右足が同時に出てしまった羽菜は悪くない。
いい匂いのする車内に莉子の話し声とそれに相槌を打っていたが、しばらくして静かになった。振り返ると窓に頭を預けて、莉子は眠っていた。
(やだっ!どうしよう!気まずい……)
途端に気になる無言の空間。もうずっと乗ってから運転席の方が見れていない。
何とかして会話をしなければと頭を巡らせていると、車内に流れていた音楽に気付き、羽菜は思わず「あっ」と声を上げた。
「どうしたの?」
「私、この曲知ってます!」
「へぇ、マイナーなのに珍しいね」
「そうなんですよ!インディーズで解散しちゃったからあまり世に知られてないですもんね。私、初めてリアルでこのバンド知ってる人に会いました!」
「そうそう。ああ、ほんと会えて嬉しいな」
その言葉に心臓が跳ねた。深い意味なんてない。分かっているはずなのに、浮かれた心が暴走しそうになる。
会話の流れでそっと運転席を見れば、信号待ちだったからか優しく羽菜を見つめていた視線とぶつかった。
「あ、青になりましたよ」
瞬間、ドキッとしたものの、彼は直ぐに目線を前に戻したので羽菜は安堵した。
チラリと横顔を眺める。前髪は分けられて髪の毛の先が少し眼鏡にかかっている。スラリと綺麗な鼻筋に形の良い唇。
そういえば昔は……。
「眼鏡かけていなかったですよね?」
「あれ?俺のこと覚えててくれてる?」
「はい、うっすらですけど……」
咄嗟に嘘をついてしまった。しっかりと覚えているのに。名前でさえも。
——莉子の兄である伊織は四歳年上だ。小学四年生の時に羽菜が引っ越して莉子に出会った。そこで仲良くなった莉子の家に遊びに行き、彼に出会ったのだ。その時点で彼は既に中学生であった。
初めはカッコイイ人だな、と思った。何度か顔を合わせて、少し話したりしているうちに優しい人だと知った。羽菜は一人っ子だが、他の友達の中学生の兄や姉はみんな対応が冷たかったから余計に印象的だったのを覚えている。
やがて羽菜が中学生になり、伊織は高校生になった。県内の進学校の制服が良く似合っていて、その頃には完全に恋を自覚していた。しかしどうこうなりたいとかはなく、今になって思えばアイドルに憧れるような感情だったのだろう。
その頃は確かに眼鏡は掛けていなかった。懐かしくて甘酸っぱい思い出。
「羽菜ちゃんは綺麗になったね」
「なっ!何を言ってるんですか!莉子のが綺麗ですよ!」
「うーん、妹だからなぁ」
ハハ、と笑うその声が耳に心地よい。そうだ、声も好きだったんだ。高校の時のほろ苦い思い出が蘇る。
「あれ?」
「ん?どうしたの?」
——私は今、何を思い出した?
「はい、着いたよ」
「……あっ!ありがとうございます!」
思考の海に潜り込みそうになっていた羽菜だったが、不意に掛けられた声に我に返った。フロントガラスを見れば、見慣れた景色。自宅の脇に車は停車していた。
そういえば場所を伝えていなかったと今更ながら気付いてしまったが、事前に莉子から聞いていたのかもしれないと思い直す。
「羽菜ちゃん?」
「は、はいっ!降ります」
シートベルトを外してドアノブに手を掛けた羽菜は、もう一度お礼を言おうと振り返る。するとハンドルに肘をつき、顔をこちらに向けていた伊織の瞳とぶつかった。羽菜と目が合うと眼鏡の奥のそれを優し気に弓形になる。仄かに光るスピードメーターやナビの明かりに照らされて色気が満ち溢れていた。
「ん?どうしたの?莉子は気にしなくていいよ。無事届けたって伝えておくから」
「い、いえ!すみません、送っていただきありがとうございました!」
見とれてしまっていた羽菜は我に返り、慌てて頭を下げた。
「気にしないで。いつも莉子と仲良くしてくれてるんだから。また遊びにおいで」
「はい!おやすみなさい」
ドキドキとうるさい心臓に手を当てて、羽菜は車から降りてゆっくりドアを閉めた。サイドガラスが下げられて、もう一度小さくお礼を告げる。
「じゃあまた、おやすみ」
少し落とした優しい声が車内から聞こえてきて、羽菜の心を揺さぶった。咄嗟に胸を抑えたのを誤魔化すように頭を下げる。
動き出した車が角を曲がるまで、羽菜はぼんやりと立ち竦んでいた。
「そうなの。お父さんの長期出張にお母さんが付いて行ったって話したよね?」
「うん、覚えてるよ」
「お母さんがそう決めたのも、お兄ちゃんが帰ってきたからなんだよね」
「え……」
羽菜の心臓がドキリと音を立てた。莉子のお兄さん……、それは羽菜の初恋の相手であった。アルコールでフワフワとした頭で、リオ君のことを思い出す。そもそもその彼が気になったきっかけである人物なのだから。
「ねぇ、私、変じゃない?」
「やだ!何いきなり緊張し出すのよ」
「……だって!莉子のお兄さん、素敵だったもの」
流石に親友とはいえ、その兄に恋心を抱いた事は言えなかった。羽菜の言葉に「んー、普通でしょ?」と莉子は軽く流す。
もう元カレのこととか遥か忘却の彼方だ。とにかく手汗がすごい。もう一度鏡で確認しようと鞄に手を入れたところで、パァンと軽くクラクションが鳴らされた。
「あ、来たきた」
ヘッドライトの逆光で車内の様子がよく見えないが、白っぽい車が道路わきに停車した。暴れ出す心臓の辺りを抑えながら、車に駆け寄る莉子の後を追う。
「お待たせ」
助手席のガラスが開いて、優しげな男性の声が聞こえた。
「早かったね!ありがとう!」
「早めに連絡くれたから、いつでも出れるように待ってたよ」
ごめんねー、と言いながら助手席のドアを開ける莉子。乗り込むかと思いきや、羽菜に乗るよう手で促すではないか。
「え!私、後ろでいいよ!莉子乗りなって」
「この車後ろ狭いから、前に乗ったほうがいいよ」
「そうだね、前の方が広いから。羽菜ちゃん、どうぞ?」
両手を小さく振って遠慮する羽菜だったが、運転席からそう言われれば従う他なかった。
「お邪魔します……」
乗り込む時にチラリと運転席を見れば、初恋のお兄さんの面影を存分に残したままの男性がニッコリと微笑んでいた。
右手と右足が同時に出てしまった羽菜は悪くない。
いい匂いのする車内に莉子の話し声とそれに相槌を打っていたが、しばらくして静かになった。振り返ると窓に頭を預けて、莉子は眠っていた。
(やだっ!どうしよう!気まずい……)
途端に気になる無言の空間。もうずっと乗ってから運転席の方が見れていない。
何とかして会話をしなければと頭を巡らせていると、車内に流れていた音楽に気付き、羽菜は思わず「あっ」と声を上げた。
「どうしたの?」
「私、この曲知ってます!」
「へぇ、マイナーなのに珍しいね」
「そうなんですよ!インディーズで解散しちゃったからあまり世に知られてないですもんね。私、初めてリアルでこのバンド知ってる人に会いました!」
「そうそう。ああ、ほんと会えて嬉しいな」
その言葉に心臓が跳ねた。深い意味なんてない。分かっているはずなのに、浮かれた心が暴走しそうになる。
会話の流れでそっと運転席を見れば、信号待ちだったからか優しく羽菜を見つめていた視線とぶつかった。
「あ、青になりましたよ」
瞬間、ドキッとしたものの、彼は直ぐに目線を前に戻したので羽菜は安堵した。
チラリと横顔を眺める。前髪は分けられて髪の毛の先が少し眼鏡にかかっている。スラリと綺麗な鼻筋に形の良い唇。
そういえば昔は……。
「眼鏡かけていなかったですよね?」
「あれ?俺のこと覚えててくれてる?」
「はい、うっすらですけど……」
咄嗟に嘘をついてしまった。しっかりと覚えているのに。名前でさえも。
——莉子の兄である伊織は四歳年上だ。小学四年生の時に羽菜が引っ越して莉子に出会った。そこで仲良くなった莉子の家に遊びに行き、彼に出会ったのだ。その時点で彼は既に中学生であった。
初めはカッコイイ人だな、と思った。何度か顔を合わせて、少し話したりしているうちに優しい人だと知った。羽菜は一人っ子だが、他の友達の中学生の兄や姉はみんな対応が冷たかったから余計に印象的だったのを覚えている。
やがて羽菜が中学生になり、伊織は高校生になった。県内の進学校の制服が良く似合っていて、その頃には完全に恋を自覚していた。しかしどうこうなりたいとかはなく、今になって思えばアイドルに憧れるような感情だったのだろう。
その頃は確かに眼鏡は掛けていなかった。懐かしくて甘酸っぱい思い出。
「羽菜ちゃんは綺麗になったね」
「なっ!何を言ってるんですか!莉子のが綺麗ですよ!」
「うーん、妹だからなぁ」
ハハ、と笑うその声が耳に心地よい。そうだ、声も好きだったんだ。高校の時のほろ苦い思い出が蘇る。
「あれ?」
「ん?どうしたの?」
——私は今、何を思い出した?
「はい、着いたよ」
「……あっ!ありがとうございます!」
思考の海に潜り込みそうになっていた羽菜だったが、不意に掛けられた声に我に返った。フロントガラスを見れば、見慣れた景色。自宅の脇に車は停車していた。
そういえば場所を伝えていなかったと今更ながら気付いてしまったが、事前に莉子から聞いていたのかもしれないと思い直す。
「羽菜ちゃん?」
「は、はいっ!降ります」
シートベルトを外してドアノブに手を掛けた羽菜は、もう一度お礼を言おうと振り返る。するとハンドルに肘をつき、顔をこちらに向けていた伊織の瞳とぶつかった。羽菜と目が合うと眼鏡の奥のそれを優し気に弓形になる。仄かに光るスピードメーターやナビの明かりに照らされて色気が満ち溢れていた。
「ん?どうしたの?莉子は気にしなくていいよ。無事届けたって伝えておくから」
「い、いえ!すみません、送っていただきありがとうございました!」
見とれてしまっていた羽菜は我に返り、慌てて頭を下げた。
「気にしないで。いつも莉子と仲良くしてくれてるんだから。また遊びにおいで」
「はい!おやすみなさい」
ドキドキとうるさい心臓に手を当てて、羽菜は車から降りてゆっくりドアを閉めた。サイドガラスが下げられて、もう一度小さくお礼を告げる。
「じゃあまた、おやすみ」
少し落とした優しい声が車内から聞こえてきて、羽菜の心を揺さぶった。咄嗟に胸を抑えたのを誤魔化すように頭を下げる。
動き出した車が角を曲がるまで、羽菜はぼんやりと立ち竦んでいた。