初老アイドルが一般人女子との恋を成就させるまで
そんな風に日々は過ぎ、遂にやってきた日曜日。
茜はO海岸の最寄り駅の2つ前の駅前に降り立った。



駅前は閑散としていて、一応、タクシーの乗降場はあるものの、タクシーは一台も待っていない。
茜の横を、一緒に降りた人が何人か通り過ぎていったが、迎えに来た自動車に乗るかそのまま歩いていってしまったので、おそらく地元の人なのだろう。
店という店もなく、O海岸とは2駅しか違わないはずなのに、はるか遠くの場所にいるような錯覚すら覚える。



と、見れば一緒に降車した人たちは皆駅前から姿を消しており、今駅前にいるのは茜だけだった。
これなら、航太と合流するところを誰かに見られる可能性はかなり低いなと、茜は内心ほっとした。
と、ショルダーバッグから茜はスマホを取り出し、ロック画面を表示させて時間を確認する。
待ち合わせ時間は11時。現在の時刻は10時52分。
そろそろ航太が来てもおかしくはない時間だ。
そう認識した途端に、心臓の鼓動が早く、大きくなっていく。
心臓を落ち着けようと、茜は今一度自分の今日の服装を見直す。



クローゼットとファッション雑誌と散々にらめっこした結果、今日はモカ色のロング丈ニットワンピースに、グレーのチェスターコート、そして足元はショート丈でヒールのないこげ茶色のブーツとなった。
なるべく目立たず記憶に残らないような、それでいて隣にいても恥ずかしくなく、航太の評判にも影響しない、そんなコンセプトのもと、熟考した結果である。。



茜はもう一度スマホで時刻を確認したが、時間はまだ1分しか進んでいない。
と、車のエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。
途端に茜の体は緊張に捕らわれて、少し落ち着きかけた心臓の鼓動は、また早く大きくなっていく。
なんとなく、近づいてくるであろう車を見たくなくて、茜は俯いた。
相変わらず心臓の鼓動は煩くて、やけにその音が耳につく。



エンジン音は徐々に大きくなっていき、そして、彼女のすぐ目の前でその大きさは最大となった。
視界に、白い車体と黒いタイヤが見え、車が自分の前で停まっていることが分かる。
その車の運転手が誰かなんて、考えなくても分かる。
茜はゆっくりと顔を上げて、目の前に停まっている車をしっかりと視界に入れた。
彼女の視界には、車の窓ガラスと、窓ガラス越しにこちらを見ている人物。
勿論それは、航太だ。



航太は目が合った瞬間、彼はふっと目尻を下げて茜に笑みを向ける。
そして、手元で何か操作すると、茜の目の前の窓ガラスが開いた、




「おはようございます」
「…おはようございます」




窓ガラスが開いて、先ほどよりはっきりと運転席の航太が見える。
最後に実際会ったのは昨年の夏だが、年末にテレビで航太の姿を見ていたため、不思議と久しぶりという気持ちはさほど湧いてこなかった。
ただ、その年末にテレビで見た時より、髪は伸びて髭を生やしていて、大きめのメガネをかけている。
だけど、こちらを見つめてくるその目は、何ら変わっていない。
運転席に座っている関係で上半身しか見えていないが、航太は黒のダッフルコートを来ているようで、ワイルドな見た目とのギャップに、茜は少しきゅんとした。




「乗って」




そう航太に促され、茜は一歩踏み出して助手席のドアを開けようとする。
が、その動きはすぐに止まる。
そして一瞬の逡巡の後、茜は一歩右に移動し、後部座席のドアを開けた。




「よろしくお願いします」
「いーえ」
ドアを閉め、シートベルトを締めたことを確認して、航太は車を発進させる。

先に口を開いたのは、航太の方だった。




「お久しぶりです」
「お久しぶりです」
「今日はありがとうございます、来てもらって」
「いえ、航太さんの方こそ、車を出してもらって、ありがとうございます」




挨拶が終わると、途端に車内の会話は途切れた。
聞こえるのは、航太が流しているラジオの音だけだ。
何か喋らなくてはと、茜は必死に話題を考える。
だけど、いつもの電話やメールなら、すぐに浮かぶ話題も、今は一つも浮かんでこない。
必死に頭を回転させても、沈黙への焦りばかりが募っていく。




「……フッ」




と、半ばパニックになっていた茜の耳に聞こえてきたのは、運転席の航太の笑いが漏れた声だった。




「え、どうかされました…?」
「いや…、いつもは電話でもメールでも話が弾むのに、今は全然だなって」




その言葉に、茜もなんだか笑いがこみあげてきて、ふふっと口からこぼれ落ちる。




「茜さん?」
「いえ、私も同じこと考えてたので…、なんか、面白いなって」




少し気まずかった車内の空気は、いつの間にかあたたかいものに変わっていた。
そして、笑ったことで先ほどまで緊張感に支配されていた体は、緊張感から解放されていた。




「なんか…、年末にテレビでお見かけした時と、印象が全然違ってて、ちょっとびっくりしました」
「ああ、ですよね。次にある舞台の役作りで、髪と髭伸ばしてるんですよ」
「そうなんですね」
「まだこれでテレビとか出てないんで、全然気づかれないんですよね」
「普通に街で見かけても、絶対分かんないですよ」




紡がれ始めた会話は、澱みなく続いていく。
しばらくすると、車は幹線道路に出たが、日曜日ということ、そしえ2月ということで渋滞するほどではなく、車はスムーズに進んでいく。




「そういえば、日本車なんですね、車」
「え?」
「あ、すいません。なんか、芸能人の方って外車のイメージが…」
「あー、確かに外車の人多いですねぇ」
「航太さんは、そうしなかったんですか?」
「俺、ここの会社の車にずっと憧れてたんですよ。で、車持つなら絶対ここの!って決めてて。なんで、ずっとこの会社の車なんです」




そう話す航太の表情はルームミラー越しにしか茜には見えなかったが、嬉しそうな顔をしているのが分かり、自然と茜も笑顔になる。




「茜さんは、車何乗ってます?」
「あれです、映画のタイトルにもなってるイタリア車です」
「あー…、あの金塊奪って逃走する時に乗ってた…?」
「それです!あの映画、大学生の時に見たんですけど、見た時に一目惚れして、もう絶対この車にする!って」
「なんかいいですね、そういうの」




その時、茜の視界にきらりと光るものが見えてきた。
視線を正面から右手に移し、窓の外に目を凝らすと、それは海だった。
後部座席の窓はスモークガラスのためその色を見ることはできないが、太陽の光に反射して煌めく様は変わりなく、茜はその光景から目が離せない。




「あ、茜さん。ちょっと道の駅寄ってもいいですか?」
「え?ああ、大丈夫ですよ」




航太の声に現実に引き戻された茜は、再び正面を向く。
と、その瞬間、一つの懸念が思い浮かぶ。
道の駅に行くということは、普通に考えていったん車を降りるということだ。
だが、航太と一緒に降りて、それで周囲の人に気づかれてしまったら。
それは何としてでも避けたい事態である。
そうこうしているうちに、車は道の駅に到着し、航太は建物から少し離れたところに車をとめた。




「あの、航太さん!」
「はい?」




突然名前を呼ばれて、航太は若干反射的に振り返り、後部座席の茜を見た。
視界に現れた茜は、どこか緊張した表情だ。




「私、車で待っててもいいですか…?」
「いい…ですけど…」
「だって、私と一緒にいるところ、見られたらまずいですよね…?」




本当のところ、航太としては茜に降りるかどうか聞く予定だった。
その上で、もし降りるというなら別々に行こうと提案しようかと考えていたのだ。
だから、茜の方から先に降りないという申し出があり、なんだか拍子抜けした感覚が航太の中に生まれていた。
と同時に、茜への感謝も生まれていく。




「…ありがとう」




少し微笑んで、航太はその感謝を素直に茜に伝えた。




「じゃあ、俺ちょっと行ってくるから、待っててください」
「はい」




そう言って、航太は一人車を降り、店舗のある建物へと歩き始めた。
その後ろ姿を、茜はスモークガラス越しにじっと見つめる。
黒のダッフルコートはミドル丈で、ボトムスはデニムだ。流石は現役アイドル、後ろ姿もかっこいいと、茜は心の中でこっそり思った。



一方、歩きながら航太は、今日茜と最初に合流した時のことを思い出す。
車に乗るように茜に促した時、茜は最初、助手席の方へ一歩踏み出した。
しかしすぐに方向を変え、後部座席のドアを開けたのだ。
彼女がその時何を考えていたかを、正確に知ることはできない。
だが、助手席では都合が悪いと思っていたであろうことは、彼女の行動から推測できる。


今しがたの降りないという提案や、最初にメッセージアプリではなくメールにしようという提案も含めて、彼女は常に、航太にとって不利益にならないことは何か、を主軸に考えてくれている。
それはありがたいことだったし、航太にとって嬉しくもあった。
惹かれている相手が、自分のことを想ってくれている。
いくつになってもその事実は嬉しいものだ。
どことなく軽い足取りで、航太は自動ドアをくぐった。


なお、なぜ道の駅に寄ったかというと、先日、メンバーの暁にO海岸に行くとぽろっとこぼしたところ、そこの道の駅でしか売ってないショウガを使ったお菓子を要求されたからである。
暁ご所望のショウガのお菓子を買って、航太は足早に車に戻った。
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