キネンオケ
目白のマンションの一室でこの夏一番最初に買ったワンピースを着て朋美はヴァイオリンの響きを確認する。
ここはホールやステージとは違うけれど、音大生が暮らしているマンションよりずっと立派でいい部屋。十分にいい音を出せそう、と確認していると友人の瑛子が笑った。

「朋美ったら、気合が入ってるわね」
「本番じゃなくても、今日だって大事な練習なのよ。」

強い口調で言う朋美に瑛子はいくらでも付き合うわよと笑った。

瑛子は音大の同級生で、伴奏をしてもらったことがきっかけで親しくなった。
瑛子の伴奏は、いい。何人か伴奏をしてもらったことがあったけど、その中でも特に仲良くなったのが瑛子と、もう一人、ピアノ科の特待生だった里香だった。

しかし、里香の伴奏とはあまり相性がよくなかった。里香のほうが技術的な評価は高いし、こちらも気合が入るけれど、彼女と組むと喧嘩してるみたいになってしまう。自己主張のぶつかり合いというのだろうか。華やかで芯の強い里香のピアノは、ソロがいい。ピアニスト向きなのだと思う。里香の演奏を聴くときは、観客側にいたいと朋美は思っていた。

一方の瑛子は、一人で舞台に立っている姿など想像できない。かといって指導者という雰囲気でもない。一番似合うのは、自分の部屋で楽しそうに好きな音楽を奏でる姿。基本的に競争心も欲もないのんきなお嬢様なのだ。

瑛子は25歳になってすぐに結婚した。もともと家柄がよくて仕事をしたことさえなかたから、専業主婦をしている、と言われても驚かないし、忙しい医者の旦那様を献身的に支えているというのは、瑛子によく似合うとさえ思う。寄り添う、というのは瑛子のピアノにもよく表れていた。彼女のピアノはヴァイオリンの音色にしっくりと馴染むのだ。もとより、ワガママな自分に瑛子が合わせてくれているとも思っていた。それでも瑛子は嫌な顔一つせず、合わさった音色を心地よさそうに受け止めていた。

「三時くらいには来れると言っていたのよ」

時計を見ながら瑛子が言う。来れる、と言っていた人物は瑛子の義理の弟の和樹だ。
和樹は、瑛子の旦那の博樹の弟で、朋美と瑛子と同い年の研修医だ。180センチ以上ある身長と、冷静で、どこか澄ましたような涼しいような、それでいてきちんと整った顔立ちの彼は、女の子の理想をうまく詰め込んだような存在だった。
結婚式のときに少し話しただけだったけど、近づきたいな、と思った。顔立ちは整っているほうがいいし、将来性があるほうがいい。誰だってそうじゃないの?みんな本音を言わないだけで、そういうものでしょう?やがて来るであろう和樹と何を話そうかと考えながら瑛子の横でヴァイオリンを静かにならしていると玄関のベルが鳴った。同時にガチャリと音がしてドアが開く。

「お邪魔するよ。夏海も連れてきた」

玄関のほうで和樹が少年のように明るい顔で笑っているのが見えた。

「こんにちは。お邪魔します」

見ると和樹の後ろに女の子がいた。夏海と呼ばれた彼女は、化粧はほとんどしていないようで、髪の毛はきれいなロングヘアではあったが、きちんとセットされているとはいいがたい。服装も白いシャツにデニムといういたってシンプルな格好で、申し訳なそうにリビングに入ってきた。
瑛子は嬉しそうにピアノの椅子から立ち上がって駆け寄る。

「夏海さん!遊びに来てくれて嬉しいわ。でもなんだか顔色がよくない気がするけれど、大丈夫?」

瑛子の言葉に対して彼女は申し訳なさそうに、でも笑顔を作って見せて言った。

「ちょっとオペが長引いちゃって。でも、全然。いつものことですし。このくらい平気なんで。それより楽しみで、すみません、押しかけちゃって」
「こっちは嬉しいばかりよ。来てくれてありがとう。無理せず、横になって寝ちゃってもいいから。ゆっくりしていって」

瑛子は彼女と面識があるようだった。オペ、というのだから、和樹の同僚なのだろうと思うと、瑛子が言った。

「夏海さんは、和樹の同級生で、今は同じ大学病院に勤めるお医者さんなの。それと、こちらは私の同級生の朋美。ヴァイオリンを弾くの。今はオケにも所属してるプロでレッスンや個人での演奏会も開いているわ」

瑛子に紹介された朋美は夏海さんと呼ばれる彼女と初めましてを言い合って軽く微笑む。その横で和樹は「横になれば」とソファのクッションを片付けて、どこからともなくブランケットを出して来ていた。同僚といえど、ここまで一緒にくる関係。それも今日が初めてではないとなると、その関係の深さは予想できた。

朋美はとたんに肩を落としてしまう。クリーニングから帰って来たばかりのワンピースも朝から念入りにセットした髪の毛はどこか力なく崩れてしまったようだ。

所詮いい男なんてのはすでに相手がいるものなのだ。ああ、私の何が悪いの?と朋美は天を仰ぐ。身だしなみだってきちんとしているし、女らしく、きれいでいようといつだって努力している。それなのにどうしてたった一人の誰かの特別になれないのだろう。

よろめきそうになりながらピアノの横に立つと、ソファに座ってブランケットを膝にかけながらも、背筋を伸ばしたままの夏海さんと目が合う。真面目で、謙虚で、丁寧な人なのだろうと思った。彼女は申し訳なさそうに、でも嬉しそうに笑った。

「すみません。大事な練習にお邪魔させていただいて。でもすごく楽しみで、どうしても聴いてみたくて」

瑛子が「夏海さんは音楽が好きなの」と言う。

そうだろうな、と思う。そうじゃなかったら、こんなただの練習のために疲れた身体で聴きに来ないだろう。こんなふうに演奏者に敬意をもって、向かってきちんと座って微笑まないだろう。どこか照れたように、控えめに微笑むその顔が、なんだか胸をしめつける。きれいな人。化粧とかファッションとかそんなことじゃない。その笑顔に、どうして彼女が和樹の横にいるのかを納得する。きっと一緒にいればいるほど、その魅力を知るだろう。朋美はそう思った。

そして、いいな、と思う。安心できる場所があって。ソファで並んでこちらに顔を向ける二人の男女が羨ましかった。自分も誰かの横でそんな風に微笑んでみたいと思う。

「練習で申し訳ないですが、本番だと思って演奏します。」

いつもそうするようにヴァイオリンを首元に運ぶ。弦はいつも通り、手首もきちんと動く、と確認して、一度、数秒間目を閉じて深呼吸をする。この流れをするとリラックスできるし、集中できるのだ。
ピアノの伴奏から静かに始まるブラームス。瑛子の静かで熱い伴奏が、特によく響く。ヴァイオリンに寄り添うように、やさしく、甘く、やわらかに。それにこたえるように温かい音色が引き出される。もったいないな、と思った。瑛子はこんないい演奏ができるのに、演奏活動をまるっきりしないで。せっかく安定した暮らしがあるのだから、好きなように、どこかで弾けばいいのにと思う。もっとたくさんの人に聴かせてあげればいいのに、と。
でも瑛子は言う。

「趣味だからのびのびと弾けるのよ。お金をもらって、人前でいい演奏をしようなんて思うと私はだいたい失敗しちゃうから」

瑛子は笑った。そう言われると、とたんにステージに立つ瑛子の姿が想像できなくなる。
のんきで、やわらかな、甘い笑顔。不自由なく育ってきて、自分とは何もかもが違うし正解なんてもちろんないけれど、ときに嫉妬してしまうほど、甘すぎる、ずるい笑顔。

それでも私のヴァイオリンは歌う。瑛子の伴奏に心地よく、歌わせてもらう。自分で弾きながら背筋がぞくぞくする。体が喜んでいるのだ。本番で一緒にステージに立ってもらえないのが悲しいほど、いい演奏だった。

ブラームスを終えると、夏海はとても嬉しそうに、瞳を輝かせていた。心なしか血色だってさっきよりいい。ほら、瑛子はこんなに誰かを幸せにする素敵な演奏をするのに、もったいない、と朋美は思った。
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