キネンオケ
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秋めいてきた十月初旬、欲しかった楽譜などを買うために朋美は銀座に出かけていた。忙しかったこともあり、思い返してみると魁と出会ったとき以来の銀座だった。
夏のような強烈な西日はもうなくて、少しくすみ始めた空と街の色彩に、心は穏やかにもなる。
「それで、その大学院生と会ってるんだ」
「まだ三回だけよ。ただ食事しながら、話をするだけだし。」
友人の一人である里香とコーヒーを飲みながら近況報告をしていた。ピアニストとして演奏活動を里香とは同じような悩みも多いから、たまに会って話をする。もちろん仕事のことだけでなく、友人として話したいことはたくさんある。二十代後半は、公私ともに忙しいのだ。
「意外すぎる。朋美が学生と付き合うなんて」
「そんなきちんとした関係じゃないのよ。次の約束もしていないし」
そう、実際のところはそんなものだ。未来の約束は何一つない。せいぜい、今度珍しいものでも食べに行こうとか、そのくらいのもの。突然パタッと連絡が取れなくなって、会えなくなることだってありうるのだ。そのときどんな気分なのかは、今はわからない。
「いいじゃない。結婚なんて急がなくても。気が合って、一緒にいて、結婚したいタイミングのときにその人がいたら、くらいのつもりで」
そういってうつむきがちに湯気の立つ真っ黒いコーヒーを啜る里香は、とても大人びている。
こういうとき瑛子だったら「結婚が考えられない方とお付き合いなんて」と言うだろう。どちらの意見も間違っていないが、自分がどちら寄りかと言われたら、わからない。瑛子のような純粋さも里香のような柔軟さも大切だと思うから。
「そういう里香はどうなの?瑛子からちょっと話を聞いたけど、天才チェリストの伴奏をするとかしないとか」
里香は少しだけ照れたように笑った。
「天野さんのことね。まだ確定じゃないけど、一度練習をしたわ」
天野さん、というのは国際コンクールでも上位入賞している有名なチェリストだ。幼少期から天才として注目され、彼と共演できることは伴奏ピアニストとしてでもすごいことだ。加えてその甘いマスク。手が大きくて、チェロを奏でるときの俯き顔が美しいのだ。
「本当に練習だけ?」
朋美が笑いながらも疑うようなまなざしを里香に向けると、里香は笑った。
里香に学生時代からの恋人がいることは知っていたけれど、天才チェリストと恋に落ちるなら、それは仕方のないことだ。
男女のことなんて、いつだって何があるかわからない。
未来の約束なんて、所詮約束に過ぎない。未来なんて誰も知らない。信じたいのは勝手な都合。いつだって誰だって、何があるかわからないのだから。
もしも思いがけず人生で一番の恋愛をして、それが成就するのなら羨ましいとさえ朋美は思う。
里香はそんな朋美の思惑を知ってか知らずか、にっこりと笑顔を作って言った。
「バッハとベートーベンとブラームスを朝から晩まで」
「濃すぎるわ」
朋美が険しい顔をしながら言って里香が笑った。