キネンオケ
里香と別れて地下鉄に乗ると、朋美はスマートフォンを確認する。
瑛子にも近々会いたいな。そう思った瞬間、タイミングよくスマートフォンが動いた。マナーモードにしてあったとはいえ、手で持ってるとよく響く。

画面を見ると和樹の名前だった。メッセージはシンプル。

「これから夏海と瑛子の家に行くけど一緒にどう?ウニとかイクラとかあるから」

北海道でも行ったのかな、と思って思わず顔がほころんだ。返事はもちろんイエス。
せっかくのオフに、家に帰って自主練習だけなんて、ちょっともったいない気がしていた。和樹や夏海との交流はおもしろかったし、音大仲間だった瑛子とは会って話をするだけで学ばせてもらうことも多い。
すぐさま次の停車駅で乗り換えて目白に向かった。

「里香と会ってきたところだったの。瑛子とも会いたいねって話をしていて。ちょうどよかった」
「ふふふ、また三人で集まりましょう」

瑛子は笑った。
とってつけたようなお土産の、駅前の花屋の小さなブーケでさえ瑛子は完璧な笑顔で受け取る。この甘い笑顔を独り占めできる旦那さんは、幸せだと思う。

和樹と夏海が来るまでの時間、瑛子は夕方の食前酒としてアペロールを出してくれた。よかったら、と出してくれたハムとマスタードとチーズのサンドイッチを一切れだけもらって、瑛子と乾杯をする。イタリアの少し苦みのあるリキュール。まるで強い西日のような濃いオレンジ色。その色彩にふと重なる、あの強烈な、忘れられない夕方のこと。鮮明に思い出される、あの日。
じっとアペロールのグラスを見つめる朋美に瑛子が言った。

「大丈夫なの?」

もうそれだけで瑛子の言いたいこと、聞きたいことを朋美はわかってしまった。本当によく気が合うのだと思って、控えめに朋美は笑った。

「食事と会話を楽しんでるだけだから。瑛子が心配するようなことはないのよ。ちょっと変わっている人かもしれないけど、悪い人ではないのは間違いないわ。時間を戻す道具を作りたいなんてふざけた話も、実際は再生医療の研究みたいだし」

そう、彼の研究は細胞を使ってヒトの失われた機能を回復させようというものだった。それは新しい治療法としての可能性がある。
よりスピーディーに、より確かに。できれば失われる前の状態と同じように。可能であれば‘復元’したいのだと彼は言う。
そういう方向性を聞けた今は、彼が大学院生であることも、もう少し大学に残る可能性があることも、さらにどこか違う場所で学ぶ可能性があることも理解できた。

社会人として一人前になるということが、自立できるだけの十分な報酬を得るということだったら、それがまだ少し先になりそうなこともわかったが、決して悪いことをしようとしている人ではなかった。何かの形で世の中に貢献しようとしているのは何回か会って話していくうちにわかったから。

きちんとしたお付き合いや結婚なんてことは話題にならないけれど、次の約束が楽しみな気持ちを大事にしてもいいなと思うのは、と里香の影響からか、と思った。

彼は変な人ではあると思うけど、嫌な感じがしないの、と朋美が言ってそのオレンジ色の液体を、笑顔で口につけると瑛子は口を開いた。

「でも、もしも、瀬崎さんがもっといろいろなものを抱えているとしたら」

怪訝な顔をして瑛子が言いかけたところで、ベルが鳴った。同時にガチャリと音がして、和樹と夏海の笑顔がドアの向こうから見えた。

「邪魔するよ。お、朋美、もう来てたんだ」
「こんばんは。お邪魔します」

二人の言葉に瑛子はすぐさま客人をもてなす笑顔を見せた。

‘もっといろいろなものを抱えているとしたら’

瑛子の言葉。何を言ってるの?もっといろいろなものって、どういうこと?なにがあるっていうの?
得体のしれない何かに朋美の胸はざわめく。

知りたい、そう思いながらも瑛子と二人きりになれるチャンスはないまま、ウニとイクラ、それからチーズケーキを並べて、北海道の話を聞きながら四人でワインを飲んだ。

北海道のワインは穏やかで甘味があって、飲みやすすぎて、物足りないくらいだった。
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