キネンオケ
地元に帰ると言っても千葉の海が比較的近い街は日帰りでの帰省が十分にできる距離で、なかには首都圏に通勤する人もいるくらいのところ。
実家で暮らしてもよかったのだが、学校を出たら音楽で自立できる自分になりたかった。だからこそ、東京の小さなマンションの一室で朋美は一人暮らしをしている。(とはいっても多少の援助はしてもらっているが)

地元が嫌いとかそんなことはもちろんない。きっかけさえあれば、いつでも帰っていいと思っている。
思い出す町並み。その市内の病院のことも、覚えている。以前親戚のおばさんのお見舞いで訪れたことがあった。受付が街の診療所の十倍くらい大きくて、美術館かなにかみたいな空間。
その病院の、三十代半ば、総合病院院長の甥っ子の医学博士。

少し年上ではあるけれど、二十代後半に入った朋美にとっては全然問題ない範囲。その人の外見はまだ知らないけれど、自分を美人と言ってくれるだけでも気分はいいし、演奏活動も続けていいのなら確かに条件は悪くない。

友人から紹介してもらえる、ということも何よりありがたいことだった。自分が他人に推薦してもらえるだけの何かが十分にあると思うと自信になる。

それなのに、約束が待ち遠しくも楽しみでもなかった。どうしてか?朋美は朝食のコーヒーを飲みながら考えた。

顔写真でも先にもらって、好みであることがわかればいくらかやる気が出るかもしれない。でも、もしもこれでとんでもない顔だったら、約束の前日に急におなかが痛くなるかもしれない。

無言で朝食のパンを口に押し込みながら、自分で自分のことを、なんてやつだろう、と朋美は思ってコーヒーを啜る。

一分ほどそのことについて考えてみたが、よく考えてみたら、そんなとんでもない人を沙耶が紹介するはずがないと思った。そう信じることにした。でも期待せず。

「医者、か。」

わずかにぬるくなったコーヒーの残りの、少し薄いブラックを見つめながら、朋美の頭には魁の顔が浮かんだ。
魁も、一応医師免許は持ってるとは言っていたけど。

「国家試験を通ってるってだけだけどね。」

いつだったか彼はそう言った。まだ学生なんで、とわざとらしく笑って。それでも、再生医療の研究をしているのは、誰かの力になろうとしているのではないかと思える。医療というのは、どういう形であっても実質的に誰の役に立つ。とてもではないが自分はできない、と朋美は思った。それでも自分にできることがあるのなら続けたい。自分の演奏で喜んでもらえることがあるのなら。
  
「医者、医学博士、院長の甥っ子、演奏活動は好きに続けていい」

沙耶の言葉を繰り返してみて、朋美は独り言を続けた。

「うん、悪くない。悪くない」

言い聞かせるみたいに、繰り返してみた。
そして二週間後の約束を手帳に書いて、ここしばらくのこと、このあとしばらくのことを考えてみた。

魁の顔を見ない日々が更新されていく。忙しいとは言っていたけれど、と思って、ふとテーブルの上のCDを見る。ラフマニノフとスクリャービン。話の流れから魁の自宅にあった、古いCDを借りたのだ。柄にもなくロシアもの。
次の約束はないけれど、CDを返す予定は、未来にCDを返す相手がいることを感じられることで、少しだけ魁を感じる。

そして今、柄にもなく、朝から一人きりの寂しさを感じていた。
スケジュール帳に予定は色々と入っていくのに、この寂しさは何だろう。

「つまらない、っていう感じかな」

独り言をつぶやいて、冷めたコーヒーをぐっと飲みほして郵便局、銀行だとか、新しいワンピースを見に行くだとか、そんな些細な予定を書き込んで朋美は無駄にスケジュール帳を埋めみていた。

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