キネンオケ
その会話を聞いていた魁は隣で言った。
「ごめん。気にしないで。悲観的な人だから」
母親とよく似た顔立ちで、同じように、どこか悲しそうな顔で。でも友人にいつもそうするように笑顔を見せて。
「手を大事にしなくちゃいけないのは間違いないから」と朋美は笑って言って、再び目の前のLPの山を漁った。
それから、聞きたかったヘンリク=シェリングのブラームスをプレイヤーで流してもらう。
音楽が流れると、とたんに懐かしい時間が流れる気がした。
温かみのあるシェリングのヴァイオリンの音色が、子どものころから大好きだった。
いくら努力しても同じ音色を出すことはできない。LPで聴くとより強く感じる。永遠の憧れ。でも、違うからいいとも思う。この世に同じ人はいないのだから。
自分ができることを精一杯やるだけ。これからも、それを続けていくだけ。でもできたら、たくさんの人に喜んでもらいたい。それから、私の音色を世界で唯一のものだと言って欲しい。私を特別だと言って欲しい。
わずかに冷めた紅茶を啜りながら朋美が言った。
「それにしても、こんなにたくさんレコードがあるなんてね。音楽一家みたい」
「それなりに両親とも音楽好きだよ。特に、じいさんがこういうの集めるの好きだったね。俺は詳しくないけど。コンサートとかも、家族で出かけた思い出がある」
幼い彼が両親に連れられてコンサートホールに出かけている姿を想像したら、朋美は、とたんに胸が温かくなった。懐かしい、過ぎ去った、愛おしい時間を思うと。
「だから、あのときも気軽に来てくれたのね」
だからこそ和樹が紹介してくれたのかな、と朋美は思った。そんなに気がきく男ではないかなと思って笑いながらも、ふと頭に浮かぶ瑛子の言葉。
‘魁が抱えているもっとたくさんのもの’は、いったい何なのか。
あの後、瑛子に連絡してみようかなとはずっと思っていた。でも、瑛子が他人のことをぺらぺらと話すはずがなかったし、ましてデリケートなことだとしたらなおのこと。
どんなことかわからないけれど、いつか魁が自分の口で話してくれたらいいなと朋美は思っていた。探るんじゃなくて、魁の口から聞きたい。教えて欲しい、直接。彼の意志で、話したいと思った時に、話したいと思った相手が自分であったなら、どんな話でも耳を澄ませて聴こうと思う。そうやって彼について知っていくことが増えていって、いつか、もっと彼のことを知れたら。
そう思ったら、朋美は自分の中の新しい感情に気づいてしまいそうで、動揺してしまいそうだった。
「朋美も忙しいんだね」
来週の予定を聞かれて、地元に帰らなくてはいけないと言った朋美に、魁は言った。その言葉に、ええ、と軽く笑って頷いた。
─お見合いするのよ。お医者さんを紹介してもらうの。あなたの先輩かもね。
そんな世間話をしたら、魁は、何を思うだろうか。どういうリアクションをしてくれるだろうか。
もちろん、そんな挑発するかのような子供じみたことはしないし、本当のところで何の。意味もないことはわかっていた。
「うまくいくといいね」なんて言われてしまったら、自分は落ち込むのかな、と思う。そしてどうして自分が落ち込むのかを考えて、動揺する。本当に、こんなことは今までなかった。
気分を落ち着かせたくて、また少しぬるくなった紅茶を啜る。
それなりに音楽が好きで悲観的と言われた魁の母親の淹れてくれた紅茶はとてもいい香りで、おいしかった。
味わいながら、思い出してしまう、あの、こちらが泣きたくなるような顔。
もしも悲しいことや寂しいことがあるのなら、音楽を聴いて欲しいと思った。もしも聴いてもらえるのなら、直接届けたい、とも。その心をわずかなひと時でも明るくし、慰めることができるのなら、演奏者冥利に尽きる。
「今度は、きちんとコンサートにご招待するわ」
朋美が言うと、魁はいや、いいと首を横に振って笑った。
「自力でチケットを手に入れる楽しみを味わうよ。熱狂的なファンの気分でね」
なに、それ、と朋美が言って、二人で笑った。
持っていないCDがあったので、2枚だけ借りることにした。ラヴェルとドビュッシーの有名どころ。どこかで一度くらい聴いたことはあったかもしれないけれど、自分が持っていないことは確かだったから。あと本当はもっとたくさん借りたかったけれど、次の楽しみにしたいと思った。そんなこともちろん口にはしなかったけれど。
魁に駅まで送ってもらって、またいつでも遊びにきて、と言われて別れた。高校生みたい、と思いながら、それも悪くないなと、その明るい笑顔に向かってもう一度手を振った。
一人きりになって、思い浮かぶのは不思議と魁よりも魁の母親の顔だった。電車に揺られながら、朋美はその顔、その言葉を切なく思い返していた。
「ごめん。気にしないで。悲観的な人だから」
母親とよく似た顔立ちで、同じように、どこか悲しそうな顔で。でも友人にいつもそうするように笑顔を見せて。
「手を大事にしなくちゃいけないのは間違いないから」と朋美は笑って言って、再び目の前のLPの山を漁った。
それから、聞きたかったヘンリク=シェリングのブラームスをプレイヤーで流してもらう。
音楽が流れると、とたんに懐かしい時間が流れる気がした。
温かみのあるシェリングのヴァイオリンの音色が、子どものころから大好きだった。
いくら努力しても同じ音色を出すことはできない。LPで聴くとより強く感じる。永遠の憧れ。でも、違うからいいとも思う。この世に同じ人はいないのだから。
自分ができることを精一杯やるだけ。これからも、それを続けていくだけ。でもできたら、たくさんの人に喜んでもらいたい。それから、私の音色を世界で唯一のものだと言って欲しい。私を特別だと言って欲しい。
わずかに冷めた紅茶を啜りながら朋美が言った。
「それにしても、こんなにたくさんレコードがあるなんてね。音楽一家みたい」
「それなりに両親とも音楽好きだよ。特に、じいさんがこういうの集めるの好きだったね。俺は詳しくないけど。コンサートとかも、家族で出かけた思い出がある」
幼い彼が両親に連れられてコンサートホールに出かけている姿を想像したら、朋美は、とたんに胸が温かくなった。懐かしい、過ぎ去った、愛おしい時間を思うと。
「だから、あのときも気軽に来てくれたのね」
だからこそ和樹が紹介してくれたのかな、と朋美は思った。そんなに気がきく男ではないかなと思って笑いながらも、ふと頭に浮かぶ瑛子の言葉。
‘魁が抱えているもっとたくさんのもの’は、いったい何なのか。
あの後、瑛子に連絡してみようかなとはずっと思っていた。でも、瑛子が他人のことをぺらぺらと話すはずがなかったし、ましてデリケートなことだとしたらなおのこと。
どんなことかわからないけれど、いつか魁が自分の口で話してくれたらいいなと朋美は思っていた。探るんじゃなくて、魁の口から聞きたい。教えて欲しい、直接。彼の意志で、話したいと思った時に、話したいと思った相手が自分であったなら、どんな話でも耳を澄ませて聴こうと思う。そうやって彼について知っていくことが増えていって、いつか、もっと彼のことを知れたら。
そう思ったら、朋美は自分の中の新しい感情に気づいてしまいそうで、動揺してしまいそうだった。
「朋美も忙しいんだね」
来週の予定を聞かれて、地元に帰らなくてはいけないと言った朋美に、魁は言った。その言葉に、ええ、と軽く笑って頷いた。
─お見合いするのよ。お医者さんを紹介してもらうの。あなたの先輩かもね。
そんな世間話をしたら、魁は、何を思うだろうか。どういうリアクションをしてくれるだろうか。
もちろん、そんな挑発するかのような子供じみたことはしないし、本当のところで何の。意味もないことはわかっていた。
「うまくいくといいね」なんて言われてしまったら、自分は落ち込むのかな、と思う。そしてどうして自分が落ち込むのかを考えて、動揺する。本当に、こんなことは今までなかった。
気分を落ち着かせたくて、また少しぬるくなった紅茶を啜る。
それなりに音楽が好きで悲観的と言われた魁の母親の淹れてくれた紅茶はとてもいい香りで、おいしかった。
味わいながら、思い出してしまう、あの、こちらが泣きたくなるような顔。
もしも悲しいことや寂しいことがあるのなら、音楽を聴いて欲しいと思った。もしも聴いてもらえるのなら、直接届けたい、とも。その心をわずかなひと時でも明るくし、慰めることができるのなら、演奏者冥利に尽きる。
「今度は、きちんとコンサートにご招待するわ」
朋美が言うと、魁はいや、いいと首を横に振って笑った。
「自力でチケットを手に入れる楽しみを味わうよ。熱狂的なファンの気分でね」
なに、それ、と朋美が言って、二人で笑った。
持っていないCDがあったので、2枚だけ借りることにした。ラヴェルとドビュッシーの有名どころ。どこかで一度くらい聴いたことはあったかもしれないけれど、自分が持っていないことは確かだったから。あと本当はもっとたくさん借りたかったけれど、次の楽しみにしたいと思った。そんなこともちろん口にはしなかったけれど。
魁に駅まで送ってもらって、またいつでも遊びにきて、と言われて別れた。高校生みたい、と思いながら、それも悪くないなと、その明るい笑顔に向かってもう一度手を振った。
一人きりになって、思い浮かぶのは不思議と魁よりも魁の母親の顔だった。電車に揺られながら、朋美はその顔、その言葉を切なく思い返していた。