キネンオケ
「僕も音楽が好きなんですよ。」
遠藤先生の言葉に朋美は笑顔で聞き返す。
「ヴァイオリン曲で特に好きな曲はありますか?私はバッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲とか、ブラームスのヴァイオリンソナタは全部好きです。あと最近はドヴォルザークやチャイコフスキーも演奏する機会が増えて」
「ごめん、そこまで詳しくはなくて。モーツァルトとか、ベートーヴェンとかはわかるけど」
朋美の言葉をさえぎって申し訳なさそうに笑って言う遠藤先生に、なんだ、という胸の内を誤魔化すようにつられて朋美も笑う。同じように申し訳なさそうに。隣にいた沙耶は気まずい雰囲気にならないようにあわてて話題を振った。
「でもね、朋美の話をしたらぜひ会ってみたいって」
「うん、なかなかプロで演奏される方というのは身近にいなくて。ヴァイオリン奏者とはすごいなあと思って」
そんなふうに感心したように言われると、朋美も気分は悪くない。オーケストラのなかで自分と同じパートを演奏できる自分の代わりはいるとはわかっていたけれど、それでも、たまには評価されたい。自分の音をわかってほしい。認めて欲しい。特別だと言って欲しい。図々しくも。
「仲間と気軽なサロンコンサートなども開いているので、よろしければぜひ一度」
「そうだね、時間があれば」
朋美の言葉に笑顔でその遠藤先生は、そう言った。決して否定的ではないけれど、朋美には引っかかった。
そのお返しというように朋美は作ったような笑顔をみせた。
時間があればなんていうのは、「行けたら行く」と言うようなものだ。本当に行く気があれば、こちらが声をかけなくてもやってくる。
約束なんてしていなくても、行くと言われていなくても、ある時突然ステージの上から見つけてしまうみたいに。
その瞬間浮かび上がる魁の、不思議な微笑み。妙に引き付けられる、あの笑顔。思い出すと胸がきゅっと痛む気さえする。
「ここの魚介料理は本当にどれもおいしくて、大好きなんですよ」
遠藤先生は言いながらソムリエとワインの話をしている。
おいしいとか好きだとか、言葉で伝えてくれるのはすばらしいことのはずだけれど。
そのとき、ステージの上から見つけた一人の男性の顔を思い出す。
音楽が好きなんて、言葉でわざわざ言ってもらわなくていい。目の前に現れて、聴きたいと思ったからと言って来てくれればわかる。会いたかったと言われなくても、目の前で笑顔をみればわかるみたいに。
ソムリエに勧められたワインを一口味わった後で、遠藤先生は言った。
「本当、音楽を聴きに行ける余裕はいつでも欲しいんだけど、仕事が忙しくてね。診療以外にも学会や医師会の集まりなどもあるし。若いほうなので当直もするし。でも不自由はさせませんよ。朋美さんが都内で生活したければマンションを購入してもいいし。ヴァイオリニストの奥さんなんて立派なことだから、ご活躍して欲しいなと」
堂々と、年上らしい余裕をもって、稼いでいる男らしく、自信たっぷりに。
不自由はさせないなんて、なんてかっこいいことを言うのだろう。なかなか言えない男の人も多いのではないだろうか。これが年上男性の魅力か。難しい仕事をして稼いでいるからこそ言えることなのか。学生の男にはとてもではないけれど言えない言葉だろうな、とも思うと、一人の男性の顔が浮かんで、朋美はなんだかおかしくなった。
「とてもかっこいいことを言われるんですね」
そう言って丁寧に笑う朋美の顔が、隣にいた沙耶には‘本物の笑顔’ではないことがわかったかもしれない。子どものころから喜怒哀楽を全部見せてきたから。
仕事が忙しくてしっかり稼いでくれて、それでいて自分の好きなことをやらせてくれるなんて、最高の条件のはずだった。沙耶は社会的に大変まともで、いい人を見つけてきてくれたのだ。
以前から誰かいい人がいたら紹介してと言っていたのは自分なのに、せっかくこの場を作ってくれた彼女に申し訳ないなと思いながら、朋美はもう一度、嘘みたいにきれいに微笑んだ。
沙耶もまた、申し訳なさそうに話題を変えてくれた。その様子に、沙耶は朋美の本音も全部知っていて、それでも自分を大事に想ってくれているのだとわかった。もしも手が故障してヴァイオリンを弾けなくなって、何か違う仕事に就いたとしても、あるいは何もできなくなっても、沙耶は変わらず付き合ってくれると思った。本当に気が合う人とは言葉がなくてもわかりあえてしまう。
そんなふうに、あのとき、ヴァイオリン奏者の肩書を持った自分ではなく、音楽を好きで、同じようにビールを好きで、おしゃべりが好きな自分を待っていてくれた魁と、思いがけず何時間も語ったスペインバルの夜みたいに。
比べる意味はないのかもしれないけれど、いくら経済的な安定をもらえども、好きな演奏活動を続けてもいいと言われても、自分の心はきちんとわかっていた。
デザートのクリームブリュレを食べ終えて、デザートと一緒に出されたコーヒーがあと二口ほど残っているくらいの、食事が終わりに近づいたときだった。
「連絡先を」
遠藤先生が名刺か何かを出そうかとしたところで朋美は言った。
「同僚の美人ヴィオラ奏者が婚活中なんですけど、いかがでしょうか?」
驚いた顔をした沙耶と遠藤先生の二人を前に、朋美は丁寧に微笑んだ。
だって、私じゃなくてもこの人はよさそうだもの。きっと美人でステイタスになる女性なら他にもいるだろうし。口には出さなかったけれど、朋美はそう思った。
それにもう一つ。
「私、もっと変な人のほうが合っている気がするんです。」
瑛子が言った彼が抱えているもっといろいろなものが何かなんて今はわからない。時間を戻せる不思議な道具を作りたいのが、何のためなのかもわからない。彼の母親の発言や態度が気がかりなのも間違いなかった。きっとあの家には何かがある。魁も何かを抱えている。自分が想像する以上にもっとずっと大変なものを背負っているのかもしれない。
それでも変な人だなんてこと、初めて会ったときからわかっていた。覚悟があるとまでは言えないけれど、少しくらいのことは耐性がある気がする。ただ今は、もっと彼を知りたい、と思うだけ。それだけは確かだった。
「遠藤先生は、あまりにも立派でまともすぎますわ」
朋美がにこやかに言うと、沙耶は笑って、遠藤先生は困った顔をして、少しだけ笑ってくれた。