キネンオケ
「なんだ、ちゃんと付き合ってないの?」
瑛子が焼いてくれたあまり甘くないチーズケーキを食べながら、もう夕方だし、とシャンパンを開けて三人で乾杯をした。三人、と言うのは瑛子と和樹と朋美だ。夏海は少し眠りますと言って寝てしまった。聞けば昨日から2時間の仮眠しかとっていないという。寝息すらほとんど聞こえないほど静かに、そして深い眠りについた夏海を時折確認する和樹の様子はほほえましかった。
「でも付き合っているようなものなんでしょ?」
朋美の言葉に和樹は少しだけ困ったような、でも笑顔のまま言った。
「夏海は、そういうんじゃなくて」
「もっと特別で大事な存在でしょう?」
和樹の言葉に瑛子が意味ありげに軽く笑う。
「何、それ。詳しく聞きたい」
朋美が身を乗り出して話の続きを急ぐと和樹はあきれたように鼻で笑う。
「いいよ、知らなくて。とにかく俺も夏海も今は一人前になるのに大事な時期なんだよ。だからこうしてたまに一緒に息抜きするだけ」
いいね、生演奏は。なんて話題をそらして和樹は平然を装っていたけど、慌ててグラスの液体を飲み干す姿を見ていると、少しだけ誤魔化しているようでもあった。
付き合う、という口約束なんてしていなくても互いにかけがえのない存在、ということなのだろう。そのことに納得してしまう。思わず一つため息をついて言った。
「いいな、みんな。誰かの特別になれて。私の何がいけなっていうの?能力への評価は別にしても、一生懸命生きてきたわよ。女としての努力もしてるわ。それなのにどうして私だけ一人きりなの?」
お酒の勢いでつい弱音を吐く。ぐいっとグラスの液体を飲み干すと、瑛子はあうんの呼吸で空になったグラスにシャンパンを注いだ。
「朋美の特別な人も必ずいるわ。まだ出会っていないか、気づいていないだけよ」
「そうそう、たまたまだよ。タイミングとか、めぐりあわせとか、その程度のことじゃない」
和樹は残っていたチーズケーキの一切れを食べると、そう言った。
「いつくるの?私にそれが。そのタイミング。今すぐ来て欲しい」
チーズケーキを口に入れながら情けない声で朋美は言った。二十代後半に入って、続々と友人が結婚し始めていたのだ。さらにパートナーがいないのは自分くらいのものだ、と思うと嘆かわしかった。
ついでに将来どうなるかわからないオケの楽団員の給料ではこれから先の長い人生も不安である。万一ケガをして演奏ができなくなったときのことも考えなければいけないし、精神的にも経済的にも頼りになる相手がいて欲しいというのは正直な気持ちだった。
興味をもって近づいてきてくれる人も、いないわけではない。でも、勝手に恋をされても困るだけ。一方通行では愛と呼べない。お互いに惹かれるものがあって欲しいと思うでしょう。
それがないなら、ヴァイオリンを弾いているほうがいい。この甘い音色に恋をしてもう二十年以上。少しもこの楽器は裏切らない。いつだってこの胸を高鳴らせてくれる。
「だから結局仕事に一生懸命になっちゃうのよ。報われなくても、でも音楽は楽しいから」
独り言のように言っただけだったけど、瑛子と和樹が嬉しそうにしたのがわかった。
「楽しいのが一番よ。」
「そう、そう。それで喜んでくれる人がいるっていうのは幸せだよ。プロの演奏をまた聞かせてよ」
「プロなんて言われても、たいしたことないのよ。大勢いる一人にすぎない。それに手をケガしたら終わりだし。ヴァイオリンのレッスンだって生計を立てられるほどにはならないわ」
お酒を飲み始めたこともあって、話しにくいようなお金のことまですらすらと言葉が出てくる。いつもだったらもっとかわいい声で、相手を褒めて、おだてて、気分よくして、自分のことは謙遜して、会話を盛り上げるだろうけど。
まあいいや、瑛子の義理の弟なんて。自分以外の大切な女性がいる男なんて。そう思っていると、つい、口から心の声が出てくる。
瑛子は再び空になった2つのグラスを見てシャンパンを注ぐ。気泡は無邪気にはじける。そしてが言った。
「今ある環境で精一杯やってから考えればいいのよ。ヴァイオリンを弾いている朋美は、輝いてるわ」
瑛子の無垢な笑顔につられて朋美も軽く笑った。
将来のことがわからないのは当然だ。愚痴こそ吐いたものの、学生の頃はオーケストラの一員になれるかどうかだってわからなかった。オケに入れたことは嬉しかったし、みんなで音楽を作り上げる感動はここだから味わえると思えるが、やはりソリストに憧れる。特別な音を奏でたい。特別に、選ばれたい。
「朋美はソリストが似合うのよね。華があるから」
言いながら、瑛子は笑って学生時代の思い出を話してくれた。大学の学生オーケストラでもちろんソリストのポジションは争奪戦だったし、どの協奏曲をやるか、各楽器ごとに必死だった。
「朋美のバッハもすばらしいのよ。音色に慰められるの。今度機会があればコンサートも行ってみて欲しいわ。」
和樹に向かって瑛子はそう言った。
そんなふうに他人を尊重し、愛を分け与えてくれる瑛子は、やっぱり貴重な存在だった。心の澱が澄んでいくような気がするのだ。
のんきで、自分のペースを崩さない瑛子は自由で、悪く言えば気ままで勝手なように見えるところもあるけれど、全部ひっくるめて瑛子を好きだと思う。
そんな瑛子が羨ましい。瑛子は大事に守られていて、それに応えるように愛を貫いていて。
もしも私が瑛子のようだったなら、誰かに愛されていただろうか。この寂しさや不安を埋めてくれる特別な誰かが、いただろうか。