キネンオケ
ベートーヴェンの難聴についての興味深い本と資料を見つけたからと言って魁が連絡してくれたのは、ベートーヴェンの第九を耳にする機会が増え始めるシーズンだった。
朋美にとってはクリスマスソングよりずっと一年の終わりを感じる曲。年末のコンサートに向けて忙しい時期ではあったが、次に借りたいと思ったCDもあった。もちろんCDなんて言い訳に過ぎない(今や音楽のダウンロードも購入もネットですぐにできる)が、関係のはっきりしない男女が会うための理由は重要で、メッセージを見た瞬間に笑顔が出たのは、魁が自分を思い出してくれたことが嬉しかったから。

顔を見たいとは言えなかったけれど、本当は、顔を見たかったのだ。目の前にいてくれたら、一人でいるより気持ちが明るい。メッセージのやりとりではだめ。電話もイマイチ。冗談も、他愛ない話も目の前にいてくれると違う。

‘一人’は、大したことではないと思っていた。一人で出かけること、一人で食事をすること、一人で舞台に立つこと。でも、分かち合える喜びを知ってしまうと、孤独は強まる。そして誰かといても孤独を感じてしまうことの強烈さを、むなしさを、魁といて初めて知った。

魁は新宿あたりでビールでも飲もうかと言ってくれたが、忘年会シーズンで騒がしそうでもあったし、彼の家にお邪魔することにした。あの家に興味があったといえば、嘘ではない。でももう何度かお邪魔させてもらっていたし、いいかな、と思ったのだ。魁は快く承諾してくれた。

約束の日、駅ビルで季節限定のお菓子でも買ってから行こうと思ってショウケースを見ていると、こんにちは、と聞いたことのある声で言われた。

顔を上げると、もしかして、と思った通り。魁の母親だった。黒いコートに身を包んで、きゅっと足首のしまったピンヒールのショートブーツを履いて、シックで品のある装いが素敵だった。

「偶然ね。ご自宅はお近くなの?」

その言葉に朋美はなぜか申し訳ないような気持ちになって、少し言葉を選んだ後、控えめな口調で言った。

「このあとお邪魔させていただく約束をしておりました」

その言葉に、魁の母親は朋美がショウケース越しのお菓子を見ている理由がすぐにわかったようで、はっきりと言った。

「そう、だったら、一緒に行きましょう。お菓子なんて買わなくていいのよ。うちはね、商売をやっているからいただきものがたくさんありますの。」

そう言われて、「でも」と一度朋美は言ったが「いいから」と言われて、朋美は魁の母親に連れられるように駅ビルを出た。

外に出ると冬のぴんと澄んだ空気の青空が気持ちよかった。
駅からの五分ほどは、ほとんど無言で並んで歩いた。魁の母親と並んで歩くなんて変な感じがしたが、不思議と嫌ではなかった。魁に似ているからとかではそんなことではなくて。この人が本当は繊細で、細かいことを気づけてしまう、切ない人なのだと思ったからだ。

気になったパン屋、カフェ、本屋、銀杏並木、あらゆるものを背景にしながら、立ち止まることなく彼女は言った。

「うちの息子とは、何がきっかけだったの?」
魁の母親は細いヒールでも少しもぶれずにまっすぐに歩いていた。はっきりとした口調で。でもなぜか、朋美にはその堂々としている姿が心配になるほどで。そのことを聞きたかったのかな、と思って朋美は同じペースで歩きながら言った。

「友人のつながりで紹介してもらいました。それから魁さんが私のコンサートに来てくれて。」

ご家族でもコンサートに出かけた思い出があるとおっしゃっていました、と付け足すと、魁の母親は軽く笑った。朋美にはその横顔が切なく見えた。

「もうずっと昔のことね。懐かしいことだわ」

過ぎ去った遠い時間を見つめるように彼女は目を細めた。それから数十秒、無言で並んで歩いた。懐かしい、大切な過去があることは幸せなことだと思う。

「楽しい?」

冷たい風を感じていると魁の母親が言った。何のことかと思って朋美は聞き返そうかとすると、彼女は付け足すように言った。

「魁といて楽しい?あの子、変わっているでしょう?」

その言葉に、思わず朋美は笑ってしまった。軽くだけど、でも心の底から。作り笑いなんかじゃなくて。家族公認で変なんだなと思ったら。

「父親の事故が原因なのよ。研究職の道に進んだきっかけっていうのが」

横を見ると、彼女は正面を見たまま、儚くも美しい、強くあろうという芯の通った顔つきをしていた。抱きしめてあげたくなるような横顔なのに、近づくことができない。

「本人ははっきり言わないけど、たぶん、そうなの。そのとき魁はまだ高校生だった。夫、魁の父親ね、彼は趣味の登山の事故で大けがをして、最初はもう歩けないだろうって言われたのよ。右腕もしばらく使えなくて、リハビリして。そう考えたら幸運よね。自分の足で歩けているし、生活もできているし。でも今までの仕事はできなくなった。大学病院の脳外科医をやめて、体力的に無理のない内科で、実家の医院を継ぐ形になったわ。いずれそうなるはずだったから、少し予定が早まっただけだと思えるし、一見、なんてことないかもしれない。開業医になってオペばかりだった夫の口数が増えたことは、いいことだったかもしれないし。ただ、本人は脳外科にやりがいがあったみたいで、かわいそうというか、運命は残酷だとは思うわ。」

まるで今までため込んでいたものを吐き出すように一気に彼女は言った。その横顔はどこかすっきりしているようにも見えた。
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