キネンオケ
一連のことに朋美が何も言えないままでいると、少しの沈黙の後、彼女はまた自信をもった声で、トーンで、言った。
「でも今は落ち着いている。きちんとこれでうまく言っていると言える。」
魁の母親は、言いながら、自分にも言い聞かせるように落ち着いた、はっきりとした口調で言った。
「でも魁が、気がかりなの。普通に医者になってくれたらよかったのに。それなのに再生医療なんて興味を持ってしまって。ケガとか病気で失われたからだの一部や、機能しなくなった部分を、ぱっと治したいって。そんなあてのない未来のために貴重な時間を費やすなんて、本当にばかな子よ」
心配しているのだ、と朋美にはすぐにわかった。息子を愛していて、大切に想っていているからこそ、気がかりなのだろう。
研究職の詳しいことは知らないが、研究所などでは結果を出せないと居場所がなくなると言う話は聞いたことがあった。大学で仕事として研究できるのもごく一部の人だ。演奏家同様に、厳しい世界のようだ。
それでも‘あてのない未来’、と言う言葉はとても悲しい。だって魁の心はとても美しい。ケガで不自由になった父親を見て自分の進路を決めて、今も前向きに取り組んでいるとしたら。そのことはすばらしくて意味のあることのはずだ。そして魁を心配する母親の心もまた美しいことに、朋美は胸を痛めた。
本当は誰だってあてのない未来のためにさまよっているともいえる。朋美自身だって、これから先どうなるかわからないまま、それでも今ある環境で好きな音楽を奏でるだけ。一年後だって、今と同じことをしているかはわからないのだ。でも、うまくいくかわからない研究は、特にそう感じるものかもしれない。
「研究も大事なお仕事です。そういう大変なことをしてくれる人のおかげで、未来に希望が持てる人もたくさんいるのではないでしょうか」
立派なことだと思いますよ、と朋美が言うと魁の母親が不満を訴えるような顔で言った。
「でも、もっとちゃんとした職業の方が安心できるんじゃないのかしら。私は息子の将来について安心しているとは言えない。あなただって手をケガしたら終わりだってわかっているでしょう?マキちゃんだってケガでヴァイオリンをやめたっていうのに」
そこで話は終わった。家の前まで来たと同時に、魁が玄関から出てきたのだ。
「遅いから心配になって。」
まさか二人一緒とは思わなかったよ、と笑って魁は家に上げてくれた。
何度も見た家。立派ながらも年数を経て少し色のくすんできた白い外壁、玄関横のゲッケイジュ、薔薇。ローマ字で書かれた表札。隣のクリニックの建物。
家のなかに満ちた温かい家庭の香り。清潔で整った室内。飾られたユリのいい香り。こうやって魁の母親はいつだってこの家を満たしてきたのだ。精一杯。いろいろな不安や困難と戦いながらも、温かく、いい香りで。
やがて魁の母親は紅茶を出してくれた。きれいなティーカップで、丁寧に淹れられた紅茶。駅からの徒歩十五分で冷えた身体を芯から温めてくれるような、熱くおいしいお茶。それから、有名な神戸の焼き菓子。甘くておいしいフィナンシェ。こんなふうにもてなされて満たされないはずがない。
それなのに、朋美の心は虚ろだった。
魁が研究職に進んだきっかけ。それからマキちゃん。ケガでヴァイオリンをやめた、マキちゃん。
頭の中で繰り返す、その言葉。なんて濃い20分。頭がパンクしそうなくらいに色々なことが詰まっていた駅から魁の家までの道のり。
長い、長い道のり。この長い道のりを、私は、また帰らなくてはいけない。たとえ魁が送ってくれなくても、一人でも、どんなに、どんなに風が強くても。
「でも今は落ち着いている。きちんとこれでうまく言っていると言える。」
魁の母親は、言いながら、自分にも言い聞かせるように落ち着いた、はっきりとした口調で言った。
「でも魁が、気がかりなの。普通に医者になってくれたらよかったのに。それなのに再生医療なんて興味を持ってしまって。ケガとか病気で失われたからだの一部や、機能しなくなった部分を、ぱっと治したいって。そんなあてのない未来のために貴重な時間を費やすなんて、本当にばかな子よ」
心配しているのだ、と朋美にはすぐにわかった。息子を愛していて、大切に想っていているからこそ、気がかりなのだろう。
研究職の詳しいことは知らないが、研究所などでは結果を出せないと居場所がなくなると言う話は聞いたことがあった。大学で仕事として研究できるのもごく一部の人だ。演奏家同様に、厳しい世界のようだ。
それでも‘あてのない未来’、と言う言葉はとても悲しい。だって魁の心はとても美しい。ケガで不自由になった父親を見て自分の進路を決めて、今も前向きに取り組んでいるとしたら。そのことはすばらしくて意味のあることのはずだ。そして魁を心配する母親の心もまた美しいことに、朋美は胸を痛めた。
本当は誰だってあてのない未来のためにさまよっているともいえる。朋美自身だって、これから先どうなるかわからないまま、それでも今ある環境で好きな音楽を奏でるだけ。一年後だって、今と同じことをしているかはわからないのだ。でも、うまくいくかわからない研究は、特にそう感じるものかもしれない。
「研究も大事なお仕事です。そういう大変なことをしてくれる人のおかげで、未来に希望が持てる人もたくさんいるのではないでしょうか」
立派なことだと思いますよ、と朋美が言うと魁の母親が不満を訴えるような顔で言った。
「でも、もっとちゃんとした職業の方が安心できるんじゃないのかしら。私は息子の将来について安心しているとは言えない。あなただって手をケガしたら終わりだってわかっているでしょう?マキちゃんだってケガでヴァイオリンをやめたっていうのに」
そこで話は終わった。家の前まで来たと同時に、魁が玄関から出てきたのだ。
「遅いから心配になって。」
まさか二人一緒とは思わなかったよ、と笑って魁は家に上げてくれた。
何度も見た家。立派ながらも年数を経て少し色のくすんできた白い外壁、玄関横のゲッケイジュ、薔薇。ローマ字で書かれた表札。隣のクリニックの建物。
家のなかに満ちた温かい家庭の香り。清潔で整った室内。飾られたユリのいい香り。こうやって魁の母親はいつだってこの家を満たしてきたのだ。精一杯。いろいろな不安や困難と戦いながらも、温かく、いい香りで。
やがて魁の母親は紅茶を出してくれた。きれいなティーカップで、丁寧に淹れられた紅茶。駅からの徒歩十五分で冷えた身体を芯から温めてくれるような、熱くおいしいお茶。それから、有名な神戸の焼き菓子。甘くておいしいフィナンシェ。こんなふうにもてなされて満たされないはずがない。
それなのに、朋美の心は虚ろだった。
魁が研究職に進んだきっかけ。それからマキちゃん。ケガでヴァイオリンをやめた、マキちゃん。
頭の中で繰り返す、その言葉。なんて濃い20分。頭がパンクしそうなくらいに色々なことが詰まっていた駅から魁の家までの道のり。
長い、長い道のり。この長い道のりを、私は、また帰らなくてはいけない。たとえ魁が送ってくれなくても、一人でも、どんなに、どんなに風が強くても。