キネンオケ
7

魁とはまた少し会えないでいた。
彼は現在、実験に論文に学会に、複数のことが同時進行しているのだと言う。

朋美自身も仕事が忙しかったし、年内はもう会えないだろう。
クリスマスイブも当日も仕事なのは気が楽だ。きっとその頃、魁はたぶん研究室だろう。そうであって欲しい、と勝手に思ってしまう自分に、ばかな自分と、呆れたように朋美は一人で笑ってしまう。

あれ以来ずっと引っかかっている‘マキちゃん’。

正直、朋美にとって魁が大学院生という立場であることには慣れてしまっていたし、早々に結婚して落ち着いた暮らしをしながら演奏活動をしたいなんて思いは、もはやなくなっていた。

朋美の、‘誰かの特別になりたい’という想いは、たった一人に向けられつつあった。本当に、自分は自分が思うよりずっと打算的になれない。
魁と過ごす時間の居心地の良さや会えない日々の物足りなさは、もう他の人で埋められないものになりつつあった。

そもそも、どうして和樹からの紹介を受けることにしたのか。忙しい日々のなかで、時間を作って自分と会おうとしてくれていたのか。しばらく連絡がないことの意味を、知りたいような、知りたくないような気がする。

誰からも連絡のない夜を朋美は一人ヴァイオリンを鳴らす。
ギィギィうるさくて音程は安定しない。まるで迷いと、不満を訴えるかのような音色。そう思いながら手元の弦を見る。左手が崩れている。これではいい音になるわけがない。

じっと自分の左手を見ながら、もしもこの手が故障してしまったらと思って、そっともう片方の手でさすってみる。大事な手。ケガをしませんように。
魁が、魔法や手品みたいに治してくれるわけではないのだから。

そう思うと、‘怪我でヴァイオリンをやめたマキちゃん’のことが再び浮かんできて、一人きりの練習をいいことに、首に挟んでいたヴァイオリンにもたれかかるように、朋美は思わず項垂れてしまう。

どういう関係だったんだろう。魁の母親も知っているっていうのは、それなりに親しい人なのだろうけど…結局何もわからない。魁をどれだけ喜ばせ、悲しませた人なのかなんて、想像もつかない。

思い出す魁の顔はいつも澄ました笑顔。苛立ちや悲しみという感情は知らないのかと思うほど、いつも穏やかにしている。胸の内で何を思っているのか、ひとつひとつを説明してくれたら、少しはその気持ち、他にも、痛みや悲しみも、もしあるのなら、わかることができるのに。

朋美はそう思いながら、気分転換にチャイコフスキーを奏でる。ドボルジャークのほうが親しみやすいと言っていたくせに、結局気になってしまうチャイコフスキー。内気で、繊細と言われた、偉大な作曲家。ちょっぴり計算高いとも言われる。

作品26番。憂鬱なセレナード。ヴァイオリンと管弦楽のための作品。想い人に不満を訴えるような、ため息のような主題が切なくも美しい。

甘美な旋律はヴァイオリンだけで弾いてもそれなりに楽しいけれど、フルートとオーボエとか、仲間が加わってくれるともっと楽しい。
誰かと一緒に作り上げたり分かち合えたりすることは、こんなに素敵なことなのだと実感する。

そんなふうに、悲しみも苦しみも分かち合えたらいいのに。

もう一度朋美はヴァイオリンを鳴らした。
ギィっと鈍い音がする。いつからこんなにかわいくない音を出すようになったの、あなたは。私によく似ている、もう一人の私。
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