キネンオケ
コンサートの後に打ち上げをしていた。
ステージの上でいくらきちんとしたドレスやタキシードに身を包んでいても、所詮音楽家だって人間。お酒とともに他人とコミュニケーションをとりたいものである。
本日のソリストの彼、藤井渉は、何度もお辞儀と乾杯をして大勢の人々に囲まれて忙しそうにしていた。朋美も飲み始めた頃にヴァイオリン仲間と挨拶に行ったが、しばらくしていくらかみんなお酒も回って砕けた雰囲気になった頃、彼のほうから一人になった朋美に話しかけてきたのだった。
「おつかれさまです。今日はありがとうございました」
朋美はオウムのように同じ言葉を返して、手元にあったビールのグラスで何度目かの乾杯をした。
彼は朋美と実は同い年であったが、まだ若い頃から海外の厳しい環境に身を置く彼はとても落ち着いて、堂々としていた。それから身長も高いので、隣に並ぶとぐっと迫力があった。国際コンクール三位の実力者と思うと思わず身構えてしまいそうだったが、舞台を降りた彼は穏やかな口調と笑顔をした、ごく普通の好青年だった。
手元のビールを一口だけ口に含んだ後、彼が言った。
「三浦里香さんと親しいそうで」
里香の名前を出されて朋美は驚きつつも、ピアニスト同士どこかでつながっていたのだな、と思ったらとたんに心のバリアが溶ける気がした。
「そう、里香とは今でもよく会うのよ。学生時代も伴奏をしてもらったの。ちょっと喧嘩してるみたいになっちゃうときもあるんだけど」
共通の友人の名前の話題に素顔をさらけ出した朋美に、藤井渉は笑った。聞くところによると里香がフランスに少しの間、留学していたときに交流があったのだと言う。今回の公演にあたって、里香から連絡があったのだと彼は言った。
「朋美さんと話してみるといいって言われたんです。おもしろいからって」
「なにそれ。おもしろいって、どういう意味なのか里香に確認しないと」
里香の落ち着いた笑顔を思い出して、冗談のように怒ったふりをして朋美がビールを飲み干すと彼はまた笑って、近くのテーブルにあった瓶ビールを持って、注いでくれた。
「伴奏が必要な時はぜひ声をかけて。」
そういって彼は連絡先の書いてある名刺をくれた。
「そんな。藤井さんに伴奏を頼むなんて恐れ多いわ」
思いがけないことに、朋美は困ったように笑いながらも差し出された連絡先を受け取ると同時に、自分の名刺を慌てて取り出し、差し出した。
その様子に、朋美は思い出してしまう。あの銀座の夕方。あのとき、朋美が名刺を魁に渡していなかったら、どうなっていただろう。魁がコンサートに来てくれることもなかったかもしれない。
でも一枚の名刺から始まることもある。
例えば名刺に書かれた連絡先にメッセージを送って、単なる好奇心から、思いがけず気が合って、コンサートの後に二人きりで乾杯をするようなことがあるのかもしれない。
いつだって何があるのかわからない。
「パリに来るときも、ぜひ連絡をして。」
社交辞令じゃないよ、と言って彼は何か意味のありそうな笑顔を浮かべながら、それじゃあと隣の輪のほうへ行ってしまった。
まっすぐ伸びた背筋。ビールグラスが小さく見えるほどに立派な手。
それらを無言で見送ったのち、残されたテーブルで、朋美は一人その名刺を見ながら、今日の熱い演奏を思い返していた。
ステージの上でいくらきちんとしたドレスやタキシードに身を包んでいても、所詮音楽家だって人間。お酒とともに他人とコミュニケーションをとりたいものである。
本日のソリストの彼、藤井渉は、何度もお辞儀と乾杯をして大勢の人々に囲まれて忙しそうにしていた。朋美も飲み始めた頃にヴァイオリン仲間と挨拶に行ったが、しばらくしていくらかみんなお酒も回って砕けた雰囲気になった頃、彼のほうから一人になった朋美に話しかけてきたのだった。
「おつかれさまです。今日はありがとうございました」
朋美はオウムのように同じ言葉を返して、手元にあったビールのグラスで何度目かの乾杯をした。
彼は朋美と実は同い年であったが、まだ若い頃から海外の厳しい環境に身を置く彼はとても落ち着いて、堂々としていた。それから身長も高いので、隣に並ぶとぐっと迫力があった。国際コンクール三位の実力者と思うと思わず身構えてしまいそうだったが、舞台を降りた彼は穏やかな口調と笑顔をした、ごく普通の好青年だった。
手元のビールを一口だけ口に含んだ後、彼が言った。
「三浦里香さんと親しいそうで」
里香の名前を出されて朋美は驚きつつも、ピアニスト同士どこかでつながっていたのだな、と思ったらとたんに心のバリアが溶ける気がした。
「そう、里香とは今でもよく会うのよ。学生時代も伴奏をしてもらったの。ちょっと喧嘩してるみたいになっちゃうときもあるんだけど」
共通の友人の名前の話題に素顔をさらけ出した朋美に、藤井渉は笑った。聞くところによると里香がフランスに少しの間、留学していたときに交流があったのだと言う。今回の公演にあたって、里香から連絡があったのだと彼は言った。
「朋美さんと話してみるといいって言われたんです。おもしろいからって」
「なにそれ。おもしろいって、どういう意味なのか里香に確認しないと」
里香の落ち着いた笑顔を思い出して、冗談のように怒ったふりをして朋美がビールを飲み干すと彼はまた笑って、近くのテーブルにあった瓶ビールを持って、注いでくれた。
「伴奏が必要な時はぜひ声をかけて。」
そういって彼は連絡先の書いてある名刺をくれた。
「そんな。藤井さんに伴奏を頼むなんて恐れ多いわ」
思いがけないことに、朋美は困ったように笑いながらも差し出された連絡先を受け取ると同時に、自分の名刺を慌てて取り出し、差し出した。
その様子に、朋美は思い出してしまう。あの銀座の夕方。あのとき、朋美が名刺を魁に渡していなかったら、どうなっていただろう。魁がコンサートに来てくれることもなかったかもしれない。
でも一枚の名刺から始まることもある。
例えば名刺に書かれた連絡先にメッセージを送って、単なる好奇心から、思いがけず気が合って、コンサートの後に二人きりで乾杯をするようなことがあるのかもしれない。
いつだって何があるのかわからない。
「パリに来るときも、ぜひ連絡をして。」
社交辞令じゃないよ、と言って彼は何か意味のありそうな笑顔を浮かべながら、それじゃあと隣の輪のほうへ行ってしまった。
まっすぐ伸びた背筋。ビールグラスが小さく見えるほどに立派な手。
それらを無言で見送ったのち、残されたテーブルで、朋美は一人その名刺を見ながら、今日の熱い演奏を思い返していた。