キネンオケ
里香から新年早々に「練習に付き合って欲しい」と連絡が来て、予定を合わせて都内の練習室を2時間ほど借りることにした。
ヴァイオリンを持って指定の場所に行くと里香は入口のソファに腰かけてスマートフォンを見ているようだった。
声をかけると里香はどこか憂いのある微笑みを浮かべた。呼び出して悪かったわね、と言うような顔だった。
「里香から誘ってくるなんて珍しいわね。いったい誰の伴奏をするの?私とやってもあんまりいい練習にならない気がするけれど。まあいいわ、会いたかったし」
「それが、実は」
「すみません、僕が頼みました」
声に反応して振り向くと、そこにいたのは先日のコンサートで会ったばかりのピアニスト藤井渉だった。
どういうこと、と朋美が驚いた顔を見せると、彼は少しだけ申し訳なさそうな、でも笑顔を見せて言った。
「一度、合わせてみたいなと思って。朋美さん、全然連絡してくれないし。待ってたのに。僕は来週またパリに戻らなくてはいけないから」
そう言われて、もらった名刺は手帳に挟んだままだったことを思い出す。そして「待っていたのに」という言葉がヴァイオリン奏者に対する自分に対するものであっても、なんだか照れてしまいそうになる。胸の内を日本の男性はあまり言わないから。やっぱり海外にいるときちんと自己主張をするようになるのかな、と朋美は思った。
「とりあえず一度、一緒に演奏してもらえませんか。ご希望の曲も練習してきたから」
朋美はそんな、と困ってしまった。国際コンクール三位の人が、まさか自分の好きな曲の伴奏をしてもらえると思っていなかったのだ。
自分なんて国内のコンクール上位入賞でさえ大変なのに。まして圧倒的に競争相手の多いピアノ奏者のなかでそれができるということ。そのこと意味の大きさは、同じ音楽の世界にいるだけによくわかるつもりだった。
朋美の動揺をわかりきったように里香が朋美の両肩に、その両手を置いて背後からいつになく楽しげな声で言った。
「仕事でも試験でもないんだから」
里香が笑って「楽しめばいいじゃない」と言った。その言葉に朋美は迷いながらも同じように笑った。仕事でも試験でもない。ただただ楽しい時間。それもそうね、と言って、三人で練習室に入った。
2時間の練習で一通り、好きな曲を演奏して楽しんだ。子どものころみたいに、好きな曲を好きなだけ。コンクールや試験のための音楽でなくて、自分が好きで、弾くのが楽しくて、と言う音楽。
彼の伴奏は、思いがけずとてもよかった。もっと独りよがりかと思いきや、こちらのことも丁寧に気にかけてくれるし、控えめながらも引っ張ってくれるような頼もしさも、自由に弾いていいという安心感もあった。結局万能なのだろう。彼とは、初めて合わせたとは思えないほど、とても心地よかった。
最後に彼は里香と連弾を披露してくれて、それはとても贅沢で、本当に楽しい時間だった。二度とはない。夢みたいなひととき。またいつかこういうことがあったらいいなと祈ってしまう。先の見えない未来を祈るくらいは、未来に希望を持つくらいは誰にでも平等に与えられている。
途中の乗換駅で里香と別れて、藤井渉と朋美は二人になった。
「思いがけずとても楽しかった。今日は本当にありがとう」
丁寧に朋美がほほ笑むと、彼もまた同じように笑った。
「思い切ってやってみると、意外と楽しめることもあるから。パリにもおいでよ。短期のコースだってあるし。サポートするよ」
「勧めてくるわねえ。」
朋美が言って、二人で笑った。
「ウィーンやドイツでもいいかな。近くに来てよ。このままサヨナラはもったいない気がするから」
彼の言葉に朋美は思わず彼を見上げて、何も言えないでいた。気軽に言うものの、その意味のもっと深いところを理解しようとすると、気にせずにいられない。そのときの朋美の顔がまた何か面白かったのか、その様子に藤井渉は顔の顔の中心に皺を寄せて少し幼い顔つきで笑った。
「本当に、いつでも連絡をして。じゃあ」
そういって彼は颯爽と電車を降りていった。大きな手を振ってくれて、また近いうちに気軽に会えそうな、すばらしいピアニスト。とても立派な人なのに、少しも気取ってなくて、素敵な人だと思う。その気さくな人柄ゆえに自分以外にも声をかけていそうではあったけれど、そこまで期待させられるようなことがあったわけでもないから、悪い気はしていなかった。
「海外、ねえ」
思い切って飛び出したら何かが変わるのだろうか。自分の道が開けて、納得のいくことがあるのだろうか。海外の音楽院を勧められる機会も自分で興味を持った機会もあった。でも結局進路に迷うたびに、言葉の壁、お金、体力、いろいろな不安を言い訳にして、手にした場所で精一杯と思っていつでもやってきているけれど。もしかしたら、と先ほどまで一緒にいた青年の顔が浮かぶ。もしも手を引っ張ってくれるのなら、と。
電車は最寄り駅につく。とたんに現実に帰る。駅ビルでお惣菜を買って帰ろう。いいお魚があれば、たまにはちゃんと料理しようかな、でも一人分なんて外食しちゃったほうが楽だし味も間違いないけど、なんて。
びゅうっと強い風が吹いて頬を痛いほどなでて、あっというまに過ぎ去っていった。
やっぱり帰ろう。家で好きなCDを聴きながらビールを飲むのが一番いい。
現実はこんなものだけれど、何もかもが本当はとても貴重。
特別思い入れがあるわけでもない東京の街並み。
それでも、今はここで奏でたい音がある気がする。パリにはない特別なことが、今ここに。
ヴァイオリンを持って指定の場所に行くと里香は入口のソファに腰かけてスマートフォンを見ているようだった。
声をかけると里香はどこか憂いのある微笑みを浮かべた。呼び出して悪かったわね、と言うような顔だった。
「里香から誘ってくるなんて珍しいわね。いったい誰の伴奏をするの?私とやってもあんまりいい練習にならない気がするけれど。まあいいわ、会いたかったし」
「それが、実は」
「すみません、僕が頼みました」
声に反応して振り向くと、そこにいたのは先日のコンサートで会ったばかりのピアニスト藤井渉だった。
どういうこと、と朋美が驚いた顔を見せると、彼は少しだけ申し訳なさそうな、でも笑顔を見せて言った。
「一度、合わせてみたいなと思って。朋美さん、全然連絡してくれないし。待ってたのに。僕は来週またパリに戻らなくてはいけないから」
そう言われて、もらった名刺は手帳に挟んだままだったことを思い出す。そして「待っていたのに」という言葉がヴァイオリン奏者に対する自分に対するものであっても、なんだか照れてしまいそうになる。胸の内を日本の男性はあまり言わないから。やっぱり海外にいるときちんと自己主張をするようになるのかな、と朋美は思った。
「とりあえず一度、一緒に演奏してもらえませんか。ご希望の曲も練習してきたから」
朋美はそんな、と困ってしまった。国際コンクール三位の人が、まさか自分の好きな曲の伴奏をしてもらえると思っていなかったのだ。
自分なんて国内のコンクール上位入賞でさえ大変なのに。まして圧倒的に競争相手の多いピアノ奏者のなかでそれができるということ。そのこと意味の大きさは、同じ音楽の世界にいるだけによくわかるつもりだった。
朋美の動揺をわかりきったように里香が朋美の両肩に、その両手を置いて背後からいつになく楽しげな声で言った。
「仕事でも試験でもないんだから」
里香が笑って「楽しめばいいじゃない」と言った。その言葉に朋美は迷いながらも同じように笑った。仕事でも試験でもない。ただただ楽しい時間。それもそうね、と言って、三人で練習室に入った。
2時間の練習で一通り、好きな曲を演奏して楽しんだ。子どものころみたいに、好きな曲を好きなだけ。コンクールや試験のための音楽でなくて、自分が好きで、弾くのが楽しくて、と言う音楽。
彼の伴奏は、思いがけずとてもよかった。もっと独りよがりかと思いきや、こちらのことも丁寧に気にかけてくれるし、控えめながらも引っ張ってくれるような頼もしさも、自由に弾いていいという安心感もあった。結局万能なのだろう。彼とは、初めて合わせたとは思えないほど、とても心地よかった。
最後に彼は里香と連弾を披露してくれて、それはとても贅沢で、本当に楽しい時間だった。二度とはない。夢みたいなひととき。またいつかこういうことがあったらいいなと祈ってしまう。先の見えない未来を祈るくらいは、未来に希望を持つくらいは誰にでも平等に与えられている。
途中の乗換駅で里香と別れて、藤井渉と朋美は二人になった。
「思いがけずとても楽しかった。今日は本当にありがとう」
丁寧に朋美がほほ笑むと、彼もまた同じように笑った。
「思い切ってやってみると、意外と楽しめることもあるから。パリにもおいでよ。短期のコースだってあるし。サポートするよ」
「勧めてくるわねえ。」
朋美が言って、二人で笑った。
「ウィーンやドイツでもいいかな。近くに来てよ。このままサヨナラはもったいない気がするから」
彼の言葉に朋美は思わず彼を見上げて、何も言えないでいた。気軽に言うものの、その意味のもっと深いところを理解しようとすると、気にせずにいられない。そのときの朋美の顔がまた何か面白かったのか、その様子に藤井渉は顔の顔の中心に皺を寄せて少し幼い顔つきで笑った。
「本当に、いつでも連絡をして。じゃあ」
そういって彼は颯爽と電車を降りていった。大きな手を振ってくれて、また近いうちに気軽に会えそうな、すばらしいピアニスト。とても立派な人なのに、少しも気取ってなくて、素敵な人だと思う。その気さくな人柄ゆえに自分以外にも声をかけていそうではあったけれど、そこまで期待させられるようなことがあったわけでもないから、悪い気はしていなかった。
「海外、ねえ」
思い切って飛び出したら何かが変わるのだろうか。自分の道が開けて、納得のいくことがあるのだろうか。海外の音楽院を勧められる機会も自分で興味を持った機会もあった。でも結局進路に迷うたびに、言葉の壁、お金、体力、いろいろな不安を言い訳にして、手にした場所で精一杯と思っていつでもやってきているけれど。もしかしたら、と先ほどまで一緒にいた青年の顔が浮かぶ。もしも手を引っ張ってくれるのなら、と。
電車は最寄り駅につく。とたんに現実に帰る。駅ビルでお惣菜を買って帰ろう。いいお魚があれば、たまにはちゃんと料理しようかな、でも一人分なんて外食しちゃったほうが楽だし味も間違いないけど、なんて。
びゅうっと強い風が吹いて頬を痛いほどなでて、あっというまに過ぎ去っていった。
やっぱり帰ろう。家で好きなCDを聴きながらビールを飲むのが一番いい。
現実はこんなものだけれど、何もかもが本当はとても貴重。
特別思い入れがあるわけでもない東京の街並み。
それでも、今はここで奏でたい音がある気がする。パリにはない特別なことが、今ここに。