キネンオケ
9
二月最初の土曜日の夜だった。魁が突然連絡をよこして、今から行っていいか、と言ってきた。ちょうど大きな公演も控えていないし、精神的に余裕もあった。
以前、彼から送ってもらったときに今度、突然現れてやろうかと思って、と言った言葉を思い出した。本当に現れてくれたことがおかしくもあり、嬉しくもあった。
振り返ってみれば今年初めての連絡で、もう二か月近く会っていなかったのだ。もしかしたら忘れられているかもなんて思っていたくらいだったから。
「はじめてね、こんなこと」
「今年まだ一度も顔を見てないと思って。新年のあいさつもしてなかったし」
「あら、そんなこと思うの」
同じことを思っていた、と素直に言えなかった自分に嫌気が差しつつも、魁は笑って言った。
「俺をなんだと思っているのかな」
「変人」
朋美に言葉に、フン、とだけ言って彼はまた笑った。前に約束したやつ、と言ってラヴェルのCDと、それからチョコレートをくれた。
時期的にバレンタインのチョコレートだったので「いただきもの?」と朋美は聞くと魁は首を横に振った。
「駅でおいしそうだったから買ってきた」
「女の子たくさんいなかった?」
「俺以外みんな女の子だった」
その言葉に「でしょうね」と言いながら、朋美はきれいなチョコレートの箱を受け取った。2月14日が何の日なのか知らないのだろうか。いや、そんなはずないだろう。きっとイベントとかどうでもいいんだろうなと思った。
気になったら見る、おいしそうなら買う。おもしろければ続ける。子どもみたいに素直な感情でこのチョコレートを手にしたのだろうな、と思うと、やっぱり変わってる、と朋美は思いながらも、そのおいしそうなものを自分と分かち合おうと買ってきてくれたのだと思うと嬉しかった。
あの時、初めて会ったときに感じた‘変人’への恐怖は、今はもうなかった。普通ではないとは感じているけれど、魁は、とても親切でやさしい。おいしい紅茶を出してくれた彼の母親のように、こちらが恐縮してしまうほどに気遣いをしてくれる人だ。
チョコレートはデザートにしようと冷蔵庫に入れて、冷やしておいたビールにあわせて、ありあわせの生野菜とチーズ、それから非常食の缶詰をアヒージョみたいにして食べながら、彼が持ってきてくれたCDを聴いていた。
少し前の公演でこの曲を弾いたの、と朋美が言うと、魁は悔しそうにした。
「聴きたかったな」
「そんなに音楽が好きだったのね」
マキちゃんの話題につなげられるかな、何かを話してくれるかなと朋美は思ったが、彼はそんな朋美の思惑など気づかずに、興味深そうにラヴェルの精巧に作り上げられた音楽に耳を傾けていた。
「興味が湧いた、というのが正しいかな。もともと好きも嫌いもなかったから。でも今は音楽っていいものなんだなって思う」
この曲は数学みたいな音楽、と魁は独特の感想を述べながら笑顔をみせた。その様子だけでもなんだか朋美の心は温かくなるようだった。
「もしかして私の力?」
ふざけて朋美が言って、ビール片手にチーズをつまもうとすると、もう片方の左手を突然掴まれた。
「ねーこれさあ、痛くならないの?あんな風に使って」
魁は興味深そうに、笑顔で朋美の手を見ていた。その様子に驚きながらも、朋美はとても恥ずかしくなった。まさかいきなり手を見られるなんて思ってもいなかったし、考えてみたら、手をつないだことすらなかったのだから。中学生並みかも、と思いながら、ただ手を触られているだけで落ち着かなかった。
「腱鞘炎になる人もいるわ。私も、慣れない子どもの頃は練習のしすぎで痛くしたこともある」
「今は?」
「最近は、気を付けてるから。でももし」
その言葉の先に出かかった言葉を朋美は飲みこんだ。
もし手を痛めたら、と言おうかと思ったのだ。でもその後は、どうしてもらうつもりか、うっかり言いそうになってやめた。
でもどこまでも変わっている彼は、もはや宇宙人か超能力者のように、朋美が何を言おうとしたのかをきちんとわかっているように言った。
「うん、手を痛めたら俺がタイムふろしきで元通りにしてあげる」
その瞬間、何言ってるのよ変人、と笑い飛ばしつつ、少しだけ胸が締め付けられた。
自分への思いやりに対する喜ばしい気持ちと、かつて誰かに同じセリフを言ったかもしれないと思う切なさと、その両方が胸をいっぱいにする。