キネンオケ
5分だけと言いながら、午後二時半に揃って目を覚まして、5時間眠ってしまった自分たちを愚かだと笑いながら、結局、二人きりで朝まで過ごした。

一晩中二人きりで過ごして何一つ特別なこと…いわゆる恋人たちがするようなことが一つもなかったことに対しては、朋美はもう、驚きもしないし落胆もしない。そもそも期待もしていなかった。普通の男女ならありえないことでも魁とならありえるのだ。

結局その日は、二人で朝まで音楽を聴きながら、熱いホットウィスキーを飲んで、彼が持ってきてくれたチョコレートを一粒ずつ、ゆっくりとつまんで過ごした。

魁が幼い頃に聴いたことがありながらも忘れられない、けれどタイトルがわからない曲を口ずさんでは朋美がタイトルと作曲家を言って、動画を探すかCDをかけて答えを確かめた。まるでクイズ番組みたいと二人で笑った。本当に話をしたいことはたくさんあるはずなのに、魁と一緒にいると今、その瞬間が貴重に思えて、結局大事な話はできないままだった。

それでも少し古いボロディン弦楽四重奏団のチャイコフスキー、アンダンテ・カンタービレの二人で懐かしい響きに聞き入ったとき、魁が、泣かせる曲だ、と言ったので朋美は驚いた。この曲の冒用はウクライナの民謡に題材を得ているらしいが、そのせいかどこか懐かしさもあるようで、美しい旋律は切なく、泣きそうになる気持ちもよくわかるのだが、魁もそういう気持ちになるのだと思ったら驚いたのだ。

「泣くことあるの?」
「俺は熱い血が通った人間ですけど。本当に何だと思ってるのかな。たまには泣きたくなるだってあるよ」
「じゃあ、最後に泣いたのは?」

口にした後で、変なことを聞いてしまったかなと朋美は思ったが、魁は気にしていないようだったのでほっとした。そして魁は過去をたぐりよせるように険しい顔をして、十秒ほどの後、言った。

「怪我した親父の見舞い帰り。」

ごく普通の顔で軽く笑って、でも近づけないくらい遠くを見ながら、彼は言った。話題を変えるべきか、そのまま話を続けるべきか、どちらでもできた。でも夜中からのお酒につられるように、朋美はぽつりとつぶやくように、自分の意志と反して言葉を発した。

「タイムふろしきのきっかけ?」

口にしたことに自分で驚くほど、なんで言ってしまったのだろうと思った。でも魁は先ほどと同じように何も気にしていないそぶりで、少しぬるくなったホットウィスキーに口をつけてから、今度は手元を見ながら、淡々と言った。

「そのひとつ、なのかもね。」

それだけ言うと魁はまた薄い琥珀色の液体を啜った。
そのひとつ、と言う言葉に、再生医療に興味を持った理由は他にもあるのだとわかった。それはやっぱり大切な誰かのためなのかもしれない。質問したのは自分ではあったが、魁が大事な話の一つを自分の口でしてくれたことが嬉しかった。でもどこか寂しさも味わう。やっぱりこんな質問するべきではなかったと思いながら朋美は申し訳ない顔になり、何と返したらいいのかわからなくて、それ以上を聞くことはできなくて話を変えたくて、朋美は言った。

「チャイコフスキーはあざといわ。こんな泣けといわんばかりの曲を作って。トルストイだって泣いたって言うし。すごすぎるのよ、この曲。バーンスタイン指揮の合奏版もすばらしいのよ。聴いてみようよ」

その演奏は、朋美はCDを持っていなかったので、二人でスマートフォンをいじってその動画を探して、魁が先に見つけて、しばし二人でまた聴き入った。

あまりにも熱心に彼が耳を傾けているので、よほど気になったのだろうかと、来月のコンサートで弾くことを言おうと思ったけれど、やめた。
本当に聴こうとする気持ちがあれば、こちらが声をかけなくたって勝手にやってくる。だから、来てくれるのなら、自分の意志で来て欲しい。他の誰でもない自分の音を求めて、来て欲しい。

懐かしい時間を思い出すような、アンダンテ・カンタービレ。温かな、やさしい記憶が思い起こされる、美しい曲。同じものを分かち合って同じように心を震わせて、こんなに素敵なことがあるはずなのに。寂しい。

その二週間ほどした、少しずつ春が近づいてきた頃。
翌日の仲間との室内楽コンサートのリハーサルを終えて一息ついていると、スマートフォンにメッセージが届いていることに気づいた。いつも通りの手つきで操作して見ると、それは和樹からだった。
久しぶりなので何事かと思ってみると、思いがけない言葉があった。

「魁がロンドン行くって聞いた?」

朋美はその文字をもう一度読み返す。メッセージには何度読んでも魁とロンドンの文字があった。

ロンドン?なにそれ。

朋美はスマートフォンを持ったまましばらく動けないでいた。今日はエイプリルフールじゃなかったはずなんて古臭いことを思いながら、すぐに和樹に返事をすることができないままいた。
ただ頭に浮かぶのは、先日見た彼の笑顔、手のひらから感じたわずかなその体温、明け方まで分かち合ったアンダンテ・カンタービレ。

その泣きたいほど美しい旋律を思い出して、舞台の片隅で今にも泣けてしまいそうな気持を必死に抑えた。
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