キネンオケ
前半は、決していいとはいえなかった。ミスこそしなかったものの、何かが欠けていた。
「ちゃんと松ヤニ塗ってあるの?」
「朋美らしくない。ぜんっぜん楽しそうじゃないんだけど」
「ミスしないことがいいことってわけじゃないのよ。」
第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、それぞれに言いたい放題言ってもらって、ありがとうとごめんねを言って、朋美は、一人になって自分の右手で左手に触れてみた。それから反対も。
温かな自分の両手に繰り返し触れて、もう一度深呼吸する。
確かな感触。今。今この瞬間。そのことを確かめる。愛おしい今。二度とない。また次にいつこうして同じメンバーで集まれるかわからないし、何より同じお客さんが同じ場所に集まってくれることは、絶対にないのだ。
過去も未来もいらないと思った、愛しい手のひらの熱さ。たったそれだけでも、今にかなう瞬間はない。
情けない自分。プライヴェートな感情を演奏に持ち込んで。プロフェッショナルとして失格だ。
もう一度深呼吸して、相棒のヴァイオリンに触れる。決して何億円もするような名器ではないけれど、いいときもそうでないときもずっとそばにいてくれた。年季の入った褐色は見ると安心するほどだ。
自分とヴァイオリンの歴史を振り返ってみる。そしてこれからのことも。
朋美は、ため息とは違う深呼吸を一つ大きくした。
たとえ魁がいてもいなくても、私はいつでも音楽を愛し、最高の瞬間を求める。
ミスはあるかもしれない。みんな好みはあるし、すべての人の心をパーフェクトに満たすことはできないだろう。それでも自分ができる精一杯で届けたいと思う。自分に何かできるのなら、それしかできない。ぐっと両手に力を込めて、その感触を確かめる。
そう思うと、大丈夫と思えた。きちんとふっきれた気がした。
後半は、ずっと温めてきたチャイコフスキー、弦楽四重奏曲第一番。第二楽章アンダンテ・カンタービレは、魁と知り合う前、もうずっと昔から思い入れがあった。あまりにも有名で気軽に演奏できなくて、近づきがたかった曲。
でも、大丈夫、と思って仲間とともに後半の舞台出る。小さな会場なのに、その拍手の大きさに改めて圧倒される。批評や評価を恐れて一番舞台が怖かった大学生の頃のような気持ちがこみあげそうだった。でも大丈夫。自信を持って、堂々と、自分にできることを精一杯やるだけ。半ば無理やりだったけれど、笑顔をしっかりと作る。こうして笑顔を作っていくうちに気持ちも上がっていくものだ。
あたたかな拍手に迎えられておじぎをして頭を上げると後列客席右端、一人の男性が視界に入った。それはまぎれもなく、魁だった。小さな会場だし、見間違いでも人違いでもない。前半は、たぶんいなかった。聴きに来てくれたんだ。
とたんにこの胸は騒がしくなる。
来てくれたのは、チャイコフスキーだったから?それとも私の演奏だから?余計なことを考えると心は乱れそうになる。
「朋美?大丈夫?」
隣にいた第二ヴァイオリンの声ではっとする。わずかに首を向けて大丈夫と答えた。
そう、さっき思った通り。どこにいても自分にできる演奏を精一杯するだけ。
もう一度しっかりと笑顔を見せて、いつも通り、手首が動くのを確認して、ヴァイオリンを首に挟んで、仲間と音を確かめ合って、合図を出したらもう、楽しい時間が始まる。
魁がいてもいなくても、今、今この瞬間に精一杯音楽と向き合いたい。過去も未来もない。弓を持つ右手。弦を抑える左手。音楽を生み出すこの両手。音楽ができる喜び。心は震える。今はただ本当に、その喜びであふれていた。
「最前列にいたマダムに次のコンサートはいつ?って聞かれたわ」
「えー嬉しい!次いつできるかしらね。シューベルトやりたいのよねえ。好きな人も多いし」
「あ、わたしドヴォルジャーク希望!」
温かい拍手を繰り返したくさんもらって楽屋に戻って仲間たちのやりとりを聴きながら、朋美は一人帰り支度を急いだ。
まとめていた髪をおろして、ドレスを脱いで、いつものスカートとニットだけど、でもわりと気に入っているのを選んでよかったと思っていると、一人が言った。
「朋美、反省会もとい打ち上げ行こう。近くにあるワインバーだけどビールも種類豊富だって」
その言葉に、すぐさま朋美は両手を重ねて頭を下げた。
「ごめん!反省会はまた近々ぜひ!今日はどうしてもダメなの」
そういうと、仲間たちは一瞬驚いたのち、何かを悟ったように笑った。
「そうね、厳しい反省会は改めてやりましょう。あの前半の朋美は60点よね。ミスはなかったけれど物足りなかった。お客様にも申し訳なかったし」
「どうしてそうなったのか、詳しく聞かせてもらわないとだわ」
「そのときは次の計画も立てなきゃね」
長い付き合いの仲間たちは笑顔でそう言ってくれて、朋美はごめんねとありがとうをまたしても言って、楽屋を出た。
急ぎ足で廊下を駆け抜けて、階段を降りて、エントランスに向かう。
約束はしていない。
でもたぶんだけど、魁のことだから、近くにいる。駅で待っていてくれる可能性もあると思った。ホールを出たら電話しようと思っていると、エントランスを出たとき、もうそれだけで朋美は笑ってしまった。魁がいたからだった。
「すばらしい演奏に乾杯させてもらえませんか」
朋美に気づいた魁は、驚くこともなく、朋美が現れることなどわかりきっていたように堂々とした笑顔で言った。
驚きと確信で朋美がわずかに笑ったまま何も言えないでいると魁は続けて言った。
「熱狂的なファンとしては、出待ちくらい当然だよね」
その言葉に、懐かしい日の、いつだったかの会話を思い出して朋美は声を出して笑った。聞きたかったことは色々あったはずなのに、この瞬間、頭から抜けてしまっているほど、目の前のその姿は、愛おしかった。
「ちゃんと松ヤニ塗ってあるの?」
「朋美らしくない。ぜんっぜん楽しそうじゃないんだけど」
「ミスしないことがいいことってわけじゃないのよ。」
第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、それぞれに言いたい放題言ってもらって、ありがとうとごめんねを言って、朋美は、一人になって自分の右手で左手に触れてみた。それから反対も。
温かな自分の両手に繰り返し触れて、もう一度深呼吸する。
確かな感触。今。今この瞬間。そのことを確かめる。愛おしい今。二度とない。また次にいつこうして同じメンバーで集まれるかわからないし、何より同じお客さんが同じ場所に集まってくれることは、絶対にないのだ。
過去も未来もいらないと思った、愛しい手のひらの熱さ。たったそれだけでも、今にかなう瞬間はない。
情けない自分。プライヴェートな感情を演奏に持ち込んで。プロフェッショナルとして失格だ。
もう一度深呼吸して、相棒のヴァイオリンに触れる。決して何億円もするような名器ではないけれど、いいときもそうでないときもずっとそばにいてくれた。年季の入った褐色は見ると安心するほどだ。
自分とヴァイオリンの歴史を振り返ってみる。そしてこれからのことも。
朋美は、ため息とは違う深呼吸を一つ大きくした。
たとえ魁がいてもいなくても、私はいつでも音楽を愛し、最高の瞬間を求める。
ミスはあるかもしれない。みんな好みはあるし、すべての人の心をパーフェクトに満たすことはできないだろう。それでも自分ができる精一杯で届けたいと思う。自分に何かできるのなら、それしかできない。ぐっと両手に力を込めて、その感触を確かめる。
そう思うと、大丈夫と思えた。きちんとふっきれた気がした。
後半は、ずっと温めてきたチャイコフスキー、弦楽四重奏曲第一番。第二楽章アンダンテ・カンタービレは、魁と知り合う前、もうずっと昔から思い入れがあった。あまりにも有名で気軽に演奏できなくて、近づきがたかった曲。
でも、大丈夫、と思って仲間とともに後半の舞台出る。小さな会場なのに、その拍手の大きさに改めて圧倒される。批評や評価を恐れて一番舞台が怖かった大学生の頃のような気持ちがこみあげそうだった。でも大丈夫。自信を持って、堂々と、自分にできることを精一杯やるだけ。半ば無理やりだったけれど、笑顔をしっかりと作る。こうして笑顔を作っていくうちに気持ちも上がっていくものだ。
あたたかな拍手に迎えられておじぎをして頭を上げると後列客席右端、一人の男性が視界に入った。それはまぎれもなく、魁だった。小さな会場だし、見間違いでも人違いでもない。前半は、たぶんいなかった。聴きに来てくれたんだ。
とたんにこの胸は騒がしくなる。
来てくれたのは、チャイコフスキーだったから?それとも私の演奏だから?余計なことを考えると心は乱れそうになる。
「朋美?大丈夫?」
隣にいた第二ヴァイオリンの声ではっとする。わずかに首を向けて大丈夫と答えた。
そう、さっき思った通り。どこにいても自分にできる演奏を精一杯するだけ。
もう一度しっかりと笑顔を見せて、いつも通り、手首が動くのを確認して、ヴァイオリンを首に挟んで、仲間と音を確かめ合って、合図を出したらもう、楽しい時間が始まる。
魁がいてもいなくても、今、今この瞬間に精一杯音楽と向き合いたい。過去も未来もない。弓を持つ右手。弦を抑える左手。音楽を生み出すこの両手。音楽ができる喜び。心は震える。今はただ本当に、その喜びであふれていた。
「最前列にいたマダムに次のコンサートはいつ?って聞かれたわ」
「えー嬉しい!次いつできるかしらね。シューベルトやりたいのよねえ。好きな人も多いし」
「あ、わたしドヴォルジャーク希望!」
温かい拍手を繰り返したくさんもらって楽屋に戻って仲間たちのやりとりを聴きながら、朋美は一人帰り支度を急いだ。
まとめていた髪をおろして、ドレスを脱いで、いつものスカートとニットだけど、でもわりと気に入っているのを選んでよかったと思っていると、一人が言った。
「朋美、反省会もとい打ち上げ行こう。近くにあるワインバーだけどビールも種類豊富だって」
その言葉に、すぐさま朋美は両手を重ねて頭を下げた。
「ごめん!反省会はまた近々ぜひ!今日はどうしてもダメなの」
そういうと、仲間たちは一瞬驚いたのち、何かを悟ったように笑った。
「そうね、厳しい反省会は改めてやりましょう。あの前半の朋美は60点よね。ミスはなかったけれど物足りなかった。お客様にも申し訳なかったし」
「どうしてそうなったのか、詳しく聞かせてもらわないとだわ」
「そのときは次の計画も立てなきゃね」
長い付き合いの仲間たちは笑顔でそう言ってくれて、朋美はごめんねとありがとうをまたしても言って、楽屋を出た。
急ぎ足で廊下を駆け抜けて、階段を降りて、エントランスに向かう。
約束はしていない。
でもたぶんだけど、魁のことだから、近くにいる。駅で待っていてくれる可能性もあると思った。ホールを出たら電話しようと思っていると、エントランスを出たとき、もうそれだけで朋美は笑ってしまった。魁がいたからだった。
「すばらしい演奏に乾杯させてもらえませんか」
朋美に気づいた魁は、驚くこともなく、朋美が現れることなどわかりきっていたように堂々とした笑顔で言った。
驚きと確信で朋美がわずかに笑ったまま何も言えないでいると魁は続けて言った。
「熱狂的なファンとしては、出待ちくらい当然だよね」
その言葉に、懐かしい日の、いつだったかの会話を思い出して朋美は声を出して笑った。聞きたかったことは色々あったはずなのに、この瞬間、頭から抜けてしまっているほど、目の前のその姿は、愛おしかった。