キネンオケ
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すばらしいチャイコフスキーに乾杯するならここはやっぱりロシア料理だねと言って、少し距離はあったが隣の駅のレストランまで歩くことにした。バスだと少し待たなければいけないし、タクシーは捕まえにくいところだったし、並んで歩くのが会話もできてちょうどよかった。ハイヒールで歩くのは、少しも苦ではなかった。
忙しいなかでも時間を割いて、おいしいお酒を一緒に楽しもうとしてくれたのが嬉しかった。
でもそれは単なる気遣いや、彼自身の好奇心というだけの可能性も考えられて、考えれば考えるほどキリがないことで、結局もう何を考えても無駄なんだと思ったら、歩いているうちになんだかもう開き直れそうな気もしてきた。
なるようにしかならない。そう、なんだってそう。人の気持ちなんて特にそう。どんなに時間が流れても、科学が発達しても、どうにもならないことはあるのだから。
そのとき朋美はどうにもならない失われた何か、大事にしたかった過ぎ去った何かが魁にもあるのだろうと思うと、その痛みがこの胸に刺さるようだった。
「今日、来てくれたのって」
「うん、事前にチケット予約していたんだ。前半は間に合わなかったけど。あのチャイコフスキー、この間聴いた曲だったからびっくりしたけど、CDよりもずっと素晴らしかった」
「生演奏って感動的に聴こえてしまうものなのよ」
魁の言葉に対する自分の返しに、朋美はどうして素直にありがとうと言えないんだろうと思って自己嫌悪に陥る。なんてかわいくない女なのかしら。
でも、魁も言葉が足りないのよ。もうちょっと欲しい言葉をくれればいいのに。朋美の演奏が自分には特別なんだと一言言ってくれればすべての不安も不満も吹き飛ぶはずなのに、その言葉をくれないっていうのは、やっぱり、そうではないっていうことなのだろうか。
「私、近いうちに連絡しようと思ってたの。話したいことや、聞きたいことがたくさんあって」
しばらくまっすぐな道を歩くとわかったとき、朋美は言った。一つの方向を向いて二人で並んで話をするのは、互いに顔を見て向かい合って話しをするよりはいくらか気楽だったから。
その朋美の言葉に魁は首を傾げた。ロンドンのことなんか話すつもりすらないのだろうか。いきなりしばらく会えなくなって、それでもいいって思っているのかもしれない。
きゅっと唇をかみしめて思い切って胸の内を口に出す。
「和樹から聞いて。今月、ロンドンに行っちゃうって。その前に話したくて。魁にとって私がたいした存在じゃないからロンドンに行くことも話してくれなかったのかもしれないけど。あなたが、再生医療を目指した本当の理由とか、色々聞きたくて」
話の入り口を自分でついに開けてしまった、と思った。口に出した後から心臓の音が大きくなった気がするほどに緊張していたし、後悔しそうにもなった。笑顔で見送れば、また笑顔で会える日が来る可能性は高いのに。余計なことを言って深い話をして、思いがけず見えない亀裂が入って、もう会えなくなってしまうことだってある、と思ったら。
そんなことを思ったら、朋美は思いがけず泣きそうにもなる。アンダンテ・カンタービレはもう流れていないのに。