キネンオケ
その様子を見た魁は驚いて、どうした、と言って立ち止まった。

「魁は、平気よね。私としばらく会えなくても。ロンドンでも忙しく過ごすんだろうし、音楽なんて世界中どこにいても楽しめるし。ヴァイオリンの音だって、どこでも聴けるし」

愚痴っぽく朋美が言うと、魁は驚いたように少し笑って言った。

「だって、ロンドンに行くって、たった二週間だよ」
「え?」
「学会に出る教授のおともで。まあちょっと観光もしてこようとは思っているけど」
「たった、二週間」

力が抜けた声で朋美が言う姿を見ながら、魁はいつもと変わらない明るい表情を見せた。

「二週間って、あっというまだと思うんだけど。もしかして寂しいとか思っちゃった?」

朋美の言葉を待たずに彼は「嬉しいなあ、寂しいなんて思ってもらえるなんて」とふざけた様子でにこやかに微笑んだ。

その様子を見ながら、和樹の涼しげな、得意げに笑う顔が朋美の頭に浮かんできて、同時にじわじわと怒りがこみあげてくる。

「和樹のやつ…!」

思わず荒い口調になって鬼の形相で朋美は独り言をつぶやいた。
詳しく聞かなかった自分の早とちりでもあると言えるが、あの言い方ではまるで海外に長く行ってしまうように思えるじゃないか。和樹の性格を考えれば、そう仕向けられたようにも思えなくない。
小さく握りこぶしを丸めて怒りをあらわにしていると、魁が笑った。

「でもまあ向こうで細胞学の権威の先生にも会わせてもらえるらしいから、いつか機会があれば海外で学んだり仕事をしたりすることもあるかもしれないね」

いきなり真面目な顔つきで言う魁の話に、なんとなく朋美は寂しくも納得する。よく有名な先生とかって、海外の大学院でキャリアを積んだり、資格を取ったりしているから。そういうことは当然あるのだろう。そのとき、魁の隣には誰がいるのだろうか。

そんなことを考えていると、視線はグレーのアスファルトに向かってしまう。整っていて歩きやすい舗装された道。ついこういう道を選んで歩きたくなるけれど。歩きやすい道が、一番いい景色が見れる道とも、一番いいゴールが待っている道とも限らない。
もちろん歩きにくい道がただ疲れるだけで何もいいことないことだってあるけれど、いつだって自分が歩く道は自分の気持ちで決めたい。魁も、そうしていて欲しい。

そう思って前を向くと、先を歩き始めた魁の背中は少しだけ遠ざかっていた。
このまま遠くに行ってしまうのかな、と思って立ち止まっていると、振り向いた魁と目が合って、彼は言った。

「長く東京を離れるときは、朋美に一番に言うよ。」

その言葉に思わず朋美は目を丸くする。

「それか、そのときは一緒に行こうか」

続けて魁は言った、口角を上げて笑って、こちらを見て。夕方、西日。強烈な太陽を背負って。全身が震えるほどに、視線も、全部を奪われていた。
あの日のことを、同じ気持ちで覚えていてくれているとは思わなかったけれど、今彼の口から出たその言葉の意味をもっと詳しく教えて欲しいと思った。

「それって、どういうつもりで」

真意を聴きたくてしどろもどろに朋美が言うと、魁はあっけらかんと言った。

「朋美は海外の学校に行ったり、オケの入団テスト受けたりすればいいんじゃない?できることなんて山ほどありそうじゃん」

朋美はその言葉に拍子抜けする。鈍感すぎるのか、わざとそう言って核心に迫るところから逃げているのか。いや、確かに海外で勉強も仕事もできる。でも、聞きたいのは、そういうことじゃないのだ。

一言、自分のことを特別だと言ってくれたら安心できるのにと朋美は思いながら戸惑っていると魁は言った。

「そのときは一緒に行こうよ。朋美となら絶対楽しい」

無邪気な笑顔を見せた。まるで魔法みたいな不思議な道具を作りたいと夢を持った少年のように。
魁の、すごいところ。ただそうやって一緒にいるだけでこの心を騒がしくしてくれる。こんな人は他にいなかった。こうやっていると、このままこうして並んで歩いて行く以外の意味は、わからなかった。ただそれだけでいいのだろうかと思いながら数十秒歩いたのち、朋美は、どうしても聞かずにいられなかった一言を、ためらいながらも言葉にした。

「でも、‘マキちゃん’は、いいの?」

その名前を口にしたとたん、魁は無言になった。驚いているようだった。

なんでそのことを知っている、とでもいうような顔だった。
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