キネンオケ
その表情に、やっぱりマキちゃんは大切な存在なんだと朋美が肩を落とすと、魁が言った。
「マキは、確かにヴァイオリンを習っていたけれど」
その言葉に、ほら、やっぱりと思って、朋美は泣きそうになった。自分がそのマキちゃんを重ねて見られていたのだと思うと、みじめだった。
「手を故障して音楽の道をあきらめたんでしょう?そのマキちゃんのために再生医療を研究しているとしたら、他の誰も立ち入れないわ」
半ば泣きそうな声で俯いたまま言う朋美の言葉を最後まで聞くと、魁は数秒間堪えられないように震えたかと思うと、いきなり大笑いした。
ぎゃーははははと、まるで漫画のような笑い声をあげて、海外のコメディドラマみたいにおなかを抱えて、もうおかしくてたまらない、という様子だった。通りすがる人が不思議そうに二人を見ている。
「ちょっと、なんで笑うのよ!笑うところなの?」
朋美が勢いよく聞くと、魁はいまだ笑いが収まらない様子で、ごめん、ごめん、と言いながら、まだ笑っていた。
街路樹にもたれかかると彼はようやく落ち着いて笑いすぎておなかを抑えたまま言った。
「マキちゃんって、母方のいとこだよ。まだ中学生の女の子!確かに子供のころから習ってたヴァイオリンを辞めたけど、確かそれはスキーで腕を骨折して休んでいる間に練習も嫌になってヴァイオリン教室を辞めたっていう話で、手の故障で音楽の道をあきらめたなんて言うほど深刻な話じゃなかったと思うんだけど」
その話を聞いて、朋美は呆然とする。
まだ中学生。スキーで骨折。いとこ。
勝手に魁の大切な人だと思い込んだ自分の思考回路に恥ずかしくなる。いや、話の大事なところは間違っていないのだけど、どうしてこうなってしまったのか。またも早とちりだったか。
おもしろすぎると魁は何度も言って、また大笑いした。通りすがる人は何事かと思って朋美と魁を見て通りすぎていく。そして、しばらくの笑いが収まると、魁は一つ大きく呼吸をして、どこか余裕のある笑顔で朋美に言った。
「それで、マキが気になったんだ。」
ふうん、とつぶやいて、朋美の気持ちが全部わかったような、すべてを知っているような微笑み。もとより、この変人にかなうはずはなかったけれど。
朋美は顔が赤くなっているのがわからないように魁がいる道路側と反対側のビルに顔を向けて言った。
「別に。心配になっただけよ。もしも手の怪我でヴァイオリンを弾けなくなってしまったなんてことがあったら、悲しいだろうから。」
ふん、と顔を背けて朋美が言うと、魁は、はいはいと呆れたように笑った。
だって、もしも自分がケガをしてヴァイオリンを弾けなくなったら、すごく悲しいし悔しいはず。そしてそんな自分のために再生医療を志す男性がいたとしたら、そんな支えになることはないはずだ。
もしもきみの手を治すタイムふろしきを作るよと言ってくれたら。
他の誰もが太刀打ちできないほどに。
「まあ、そんなときにもタイムふろしきがあったら便利かもね。そうだ、質問に答える。再生医療を目指したきっかけっていうのは、親父よりすごいことしたいって思ってたからだよ。うちの親父は脳外科医として優秀だったらしいけれど、それよりすごいこと、例えば治らないものが治せる、後遺症をすっかりなおす、失われたはずのものが取り戻せる、そんなとんでもないことがしたいと思ったから」
そりゃ、親父の身体も元通りになったらいいなとは思うけど、と独り言のように言いながら、魁は再び歩き始めた。
しっかりした足取り。たぶんこうしてこの人は自分の思った道を突き進んでいく。その心は、良くも悪くも他人の力で簡単に揺らぐようなものではない。
今日はこれからおいしいロシア料理を食べに行く。さっきそう決めたのだった。約束はしてあって、行先はわかっているはずなのに、先を歩かれるのが心もとない気持ちになる。男の人の後ろ姿なんて珍しいものじゃないはずなのに、その背中が、切なくも儚くも見えた。
唯一無二だった。世界中、どこを探してもこんな気持ちになることはないだろうと思うほどに。行かないで、と叫びそうだった。どこかに行くときは一緒に連れて行って欲しい。今、この瞬間にぎゅっと掴めたら、と思わずにいられなかった。
その姿を見ながら朋美は言った。
「もしも私の指が動かなくなったら、あなたの作ったタイムふろしきで治してちょうだい」