キネンオケ
「もしも私の指が動かなくなったら、あなたの作ったタイムふろしきで治してちょうだい」
口にしてみて、はっとする。いつだったか、魁に言われたときは適当に笑い飛ばしていたはずなのに。
他の人が聞いていたなら、頭がおかしいんじゃないかと思うだろう。
なんということを言ってしまったの、と思ったのももう手遅れ。
魁は振り向いて、三秒の後、笑った。余裕たっぷりに。にっこりと、とてもいい笑顔で。
「朋美がそんなこと言うなんて、すっかり俺のペースだね」
その言葉に、朋美は恥ずかしくなって、俯いて、顔を見られないようにする。夕焼けが赤く染まっていたけれど、それだけではごまかしきれないほどに、絶対に頬は少し赤い。
本当に、こんなキャラじゃないのに。すっかり変な人に耐性ができてきた。
思えばあの日が始まりだったのかもしれない。あの待ち合わせのカフェ。強烈な西日。視線を奪われた一人の男性。自分の名前を呼ぶ声。なにもかも。
あの日から少しずつ魁のペースに取り込まれていたのだ。もはや彼を知らなかった日々に戻ることはできない。
もう流されるままだと思って、言葉が口をついて出た。
「本当にそうよ。すっかり魁のペースだわ。タイムふろしきができるのが楽しみになっちゃったじゃない。どうしてくれるの?」
責任取ってよね、と言おうかと思った瞬間だった。魁が朋美の手をとって、小さな塊を握らせた。
「あげる」
そう言われて、無理やり握らされた手のひらの中のものを朋美はおそるおそる確認する。ゆっくりと手を開いて、固い何か、小さくて、とても貴重そうな何かを。
「なにこれ、どういうこと」
突然のことに朋美は目を丸くする。
手の中には小さなダイヤモンドが一つついた銀色のリングがあった。
「うちの母親が、その昔親父にもらったっていうやつ一応エンゲージかな。結婚しようっていう約束の指輪。親父がまだペーペーの勤務医で薄給だった頃のだから、そんなに高価じゃないらしいけどね」
彼の言葉で、勝手に想像する魁のお父さんとお母さん。二人とも若くて、健康で、ただ目の前の愛を信じていた。誓いよりももっと美しい祈り。
映画のフィルムのようにパラパラと浮かび上がってくる、将来を分かち合おうとする男女の美しい場面。
「なんでそんな大事なもの」
「言ったじゃん、熱狂的なファンだって。いいんだ。いずれ朋美のになる予定だから。母親は、いつか俺のお嫁さんにあげるってずっと言ってたから」
母親からお嫁さんに、と言われて、朋美は驚いて、声を詰まらせた。いつかお嫁さんに上げる。その言葉、意味。大きな宝物。同時に朋美の脳裏に魁の母親の顔が頭に浮かぶ。あらゆることが突然押し寄せてきて、頭の中は混乱している。
「ファンなんて」
「本当にファンなんだよ。初めてて会ったときから。わかりやすくて、おもしろくて」
魁のその言葉に、どういう意味だと険しい顔をみせた朋美にかまうことなく、彼は続けて言った。
「自分のやるべきことに一途で、人間臭くて、決して器用でないところも、この先もずっと見ていたいって思ったから」
それは、よくある‘生涯愛します’よりもずっと控えめでまっすぐな思いだと朋美はわかった。
「今はまだ言える段階じゃないんだけど」
「言える段階とか、そんなこと」
「そんなことあるんだよ。まだ何にも成し遂げていない大学院生の俺が、自分の芸で身を立ててる朋美に言えるはずないんだ。でも、未来が目に見えるもので安心できるなら、もらっておいて。」
魁があまりにもいつもと変わらない様子で言うので、何かすごいことを言われたとは思えなかった。
でも一つ一つの言葉をよく理解すると、事態が大きく動いたこともわかってきたし、同時に感動しそうにもなったし、しだいに自分の気持ちばかり考えていたことが恥ずかしくなってきた。