キネンオケ
2
朋美と瑛子が練習をした日から十日ほど過ぎた平日の夜だった。
和樹が目白のマンションを訪れた。

「相変わらず、邪魔しに来るのね」
「そう言いながらも拒まない、ドアを開けてくれるやさしいお義姉さまに感謝しております」

ふざけた調子で言う和樹に瑛子はあきれたようにため息をつきながらも、笑ってしまった。
結婚した当初からよく遊びに来ていたが、今ではすっかり家族として関係が出来上がりつつあった。

もっとも、同い年の和樹は瑛子にとって友達という感じでもあった。
博樹が遅くなる夜を見計らって遊びに来るあたりが、瑛子の寂しさを埋めようとしているみたいにも思えて、ありがたかった。慣れた手つきで夏用の上着をハンガーにかけてソファに座ると和樹が言った。

「こないだ、サンキューな。夏海がすごく楽しかった、よろしくお伝えくださいって。」
「恐縮だわ。こちらこそ。また近いうちに遊びにいらしてって、お伝えして」

おー、と投げやりな返事をしながら室内に流れるBGMに耳を傾ける。シューマンか、と言いながらCDを手にとる彼は、すっかりクラシックに馴染んでいる。もっとも、和樹は兄の博樹よりも興味の幅が広いから音楽のこともよく知っていたし、友達も多いようだった。
心地よさそうにルービンシュタインの古い演奏に耳を傾ける彼に瑛子は言った。

「ねえ、こないだ言ってた話だけど」

瑛子はそのことを、次に顔を合わせたら聞こう、と思っていたのだ。
和樹はCDのジャケットを眺めていた視線を瑛子に向けると、にんまりと笑った。何、と言って。
そう、この顔。何かがありそうな気がしてならない、と瑛子は怪訝な顔をする。

「話って、進んでるの?」
「連絡したよ。あのあと。朋美にせかされて、うるさいから。でもまだ返事が来ない。忙しいんだよ。カイは」
「カイさんていうの?」
「そう、名前がね。魁って字。先頭をいくとか、そういういい意味の名前なんだ。名字は瀬崎。」

そして和樹はシューマンのカーニバルにあわせて機嫌よさそうにまたCDを見ていた。

「ねえ、何を考えているの」

瑛子が少しだけ険しい顔をして言うと、和樹は「大丈夫だって」と笑った。

「魁は、すごい優秀だよ。遊びで女の子と付き合うようなやつじゃないし。おもしろいやつだよ」

ビール飲もう、と言って立ち上がった彼はもはや自分のもののようにキッチン奥にある冷蔵庫を勝手に開けて、ビールを取り出した。瑛子も、と言って差し出されると、いらないと言えないままその痛いほど冷えた缶ビールを手にとった。

「もしも、朋美に会わせる機会があるなら、私も同席するから」
「心配性だなあ。なに、俺を疑ってるの?大丈夫。ちゃんと朋美の理想の、将来有望で独身で彼女なしの男だから」

はい、乾杯と和樹に言われると、瑛子はそれほど飲む気にならない缶ビールの蓋をしぶしぶ開けてのどの渇きを潤した。

多めに作ったハンバーグで和樹と夕食を済ませて、近くにマンションを借りた彼は博樹が帰ってくると挨拶だけして出て行った。
診察と会議で疲れて帰ってきた博樹にそんな話をすることはできず、週末、ランチでもしながら話題の一つとして話ができたらいいなと思いながら、瑛子は一日を終えた。


それから一週間ほど過ぎた頃、朋美から瑛子に連絡があった。和樹が例の彼を紹介してくれる日が決まったというのだ。
しかしその日はちょうど、本当にたまたま実家の都合で瑛子は横浜に行かなければならなかった。

「他の日は?」とスケジュール帳を見ながら瑛子が言うと朋美は言った。

「あとは2週間後の夜しか予定が合わないの。悪いけどそんなに待っていられないし、瑛子に同席してもらわなくても大丈夫だから。安心してよ。瑛子に迷惑はかけないから」

朋美は電話越しでもわかる生き生きとした声で、明るく、未来に希望を感じさせながら、嬉々として言った。まだ会ったことのない彼が、これほどの期待を背負わされているとは知らないだろう。同時に、瑛子にはまだ見ぬ不安が彼にある。いったいどんな人なのか。そういう意味でも同席したかったのだが、仕方ない。

「まだ明るい時間だし大丈夫だと思うけど、変だと思ったらすぐに帰るのよ」

瑛子は電話越しに真剣に言った。朋美はあっけらかんと笑った。

「お母さんみたいなこと言うのね。大丈夫よ。和樹も来てくれるって言ってたし」

また連絡するね、と言ってご機嫌な様子で朋美は電話を切った。
その和樹が、果たして信頼していいのかという小さな不安を、瑛子だけが勝手に感じていた。


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