キネンオケ
そんな高価なものではないと言われながらも手渡された指輪は、控えめな作りながらも上品で質のいいものに違いなかった。しかも彼の母親のもの。そんな大事なものを渡されて戸惑う朋美は言った。

「いきなりこんな。まさか盗んできたの?」
「違うって。母親がくれたから、こないだ。」

どうして、と朋美が言おうとすると、魁のほうが言った。

「朋美のコンサート、行ったらしいよ」
「えっ!いつの?」

それなりに大きな仕事も多々あったので、ステージの上から知り合いを見つけられる規模のコンサートばかりではないが、彼の母親が来てくれたことには全く気付く機会がなかった。

「この間、朋美の家に持って行ったCDの、ラヴェルとかの」
「ああ、年末の。けっこう前に来てくださっていたのね」

そのときの立派なホールが頭に浮かんで、それでは気づけなくても当然だと思った。
でも、まさか聴きに来てくれるとは思わなかったので、こうして知らされて戸惑っているのも事実だ。
片手を失ったピアニストのために作られたピアノ協奏曲を聴いて、何を思ったのだろう。
しかしそんな朋美の想いとは裏腹に、魁は穏やかな満ち足りた笑顔で、彼の母親に似た横顔をみせて、そして言った。

「素晴らしかったって。こんな素敵な世界があったのねって。言ってたよ」

魁のその横顔があまりにもきれいで、そう言われて、再び思い出す。魁のお母さん。美しくも儚くて、どこか憂いのある表情で。でも信念があって、強い風のなかも、細いヒールで家までの道をまっすぐに歩こうとしていた彼女。一緒に歩いたあの銀杏並木の道。

そのとき朋美は、失った何かと同じように大切な何かのために、自分が魁の母親に少しでも何かができたのかもしれないと思えた。ほんの少しだけど、確かに。

本当は、安定した稼ぎのいい女の人を息子の相手に望んでいたかもしれない。怪我をしてこれまでの仕事ができなくなった夫を支え、先の見えない研究に夢中になった息子をひとり見守っていた、魁の母親。朋美のことも気にかけてくれていた、あの人がこの指輪をくれたんだ。

もちろん、直接もらったのではない。魁に託したのだ。いつかあなたのお嫁さんにと。
それでも、朋美は魁の母親にもらった気がした。
それはまるで‘あなたの思う道を進んで’と言ってくれているようだった。

そしてその指輪を、魁が自分にくれたことの意味を改めて感じると、それを簡単に言葉にできなかった。彼は、この指輪を朋美が受け取らないはずがないと、朋美の気持ちなんてとっくにわかっていたのだ。心まで読めちゃうの?なんて、聞く気は起きなかった。最初からこの不思議な男にかなうはずがなかった。

何も言えないまま、朋美がじっと魁を見ていると彼は笑った。

「失くさないようにね。俺は取り寄せバッグは作るつもりないから」

指にはめておいたらと、魁は笑って言った。彼の口から出た新たな不思議な道具の名前につられて軽く笑いながらも、朋美はずっとどきどきしていた。うん、と朋美言いながら、その小さな粒にそっと触れた。きらめいているこの世に二つとない宝物。触ってみると、その実感が増す。

ここに刻まれた時間が愛おしく、余計に嬉しかった。過去から今につながっていて、今がまた未来につながっていく、そのことの重大さと愛おしさ。手に持った瞬間から、ずっとこの胸は強く打っている。ゆっくりと、恐る恐る西のほうにある太陽にかざすと輝きは一層増して見えた。

「ねえ、でもこれって安上がりじゃない?あなたが稼いだお金でプレゼントして欲しいんだけど」

どこか照れ臭い気持ちをごまかすように、口をとがらせて朋美が言うと魁は、はははと声を出してまた笑った。

「まあ、もうちょっと楽しみに待っててよ。タイムふろしきみたいな再生医療が近いうちに現実になるから」

魁は、自信たっぷりに言う。時間を戻す道具なんてふざけたことを言いながら、魔法みたいに病気を治したり、傷を元通りにしたり、たくさんの人を喜ばせる技術を、彼はきっと完成させてくれるだろう。それは医者として臨床の現場で動き回るのとは違う形で、誰かを元気にして、幸せにする。

楽しみに待っていて。その言葉だけで、ありふれた東京の街並みがきらめいて見えたのがわかった。
未来なんて信じられないものを信じさせてくれる人が隣にいてくれるだけで、それだけで今がこんなに輝くことを教えてくれた。

でも、そうね。夢は大きく。希望はいつだって未来へのエネルギーだもの。

「その技術でノーベル賞をとってね。ストックホルムまで一緒に行くわ。賞金でまずは指輪。それから私、記念にオーケストラ作りたい。名前はゆずるわ。セザキ・キネン・オーケストラでどう?私がソリストかコンマスよ。世界中に音楽を届けるの。約束するわ、そうなれるように、努力するって」

ソリストはやっぱり素敵だし、オケを束ねるコンマスも憧れる。どちらも簡単なことではないけれど、それでもそんなふうになりたい。努力していきたい。未来に希望をたっぷりと詰め込んで、胸を膨らませて朋美が言うと、魁は隣でとてもきれいに笑っていた。

「キネンオーケストラを作るには賞金だけじゃ足りないな。実用化してたくさん使ってもらわないと」

その彼の顔を見ながら、未来はまた輝いて見えた。

たくさんの人が、彼の研究で幸せになりますように。
春の始まりなのに、夕焼けはあの夏みたいに、情熱的な赤色に染まっていた。永遠に忘れることのできない、あの空。再び出会う。あのとき、こんなに真っ赤できれいな空を見ると思っていなかった。美しい今。過去も未来もきっと意味のあるすばらしいものだけれど、かけがえのない、確かで貴重な今。
そんな空を見ながら祈りみたいに朋美は思った。

今夜、甘い音色を魁のためだけに奏でよう。今の私だから奏でられる愛しい音。未完成かもしれないけれど、ひとつももったいぶらずに、今ここにあるすべてで。それを受け止めて欲しい。感じて欲しい。特別な音だと、今、この人だけに。
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