キネンオケ
いつかその日のことを鮮明に思い出すだろうか。
そのなにもかもを再び取り戻したいと思うだろうか。
蒸し暑い午後の道端のアスファルトとわずかな緑の匂い。ビルの隙間から注ぐ強烈な西日。なかなか手を付けられなかったアイスティーの、薄まっていく茶色とグラスの大量の水滴も、なにもかも、魁に出会った忘れられない一日として。
八月最後の日曜日昼。練習もコンサートもない貴重な1日に、朋美は瀬崎魁という男性を紹介してもらうことになっていた。
友人である瑛子の旦那の弟の和樹は研修医で忙しいが、少し顔を出すと言っていて、待ち合わせの銀座のカフェで時間より十分程早く訪れた朋美はアイスティーを頼むと時間を埋めるべく、次回公演のドヴォルザークの楽譜を開いてみた。
ドヴォルザークは、オケに所属してから演奏の機会が増えて、同時代のチャイコフスキーなどに比べると親しみやすい感じがしていた。
作曲家は世の中にたくさんいて、全体的な曲の雰囲気だとか、作曲家の人柄(もちろん間接的に知るしかできないけど)だとか、時代背景だとか、そういうもので好きになることも多いけど、なんとなく好き、と思うことも多い。そういうふうに、惹かれる、というのは素敵なことだと朋美は思う。この勝手なときめきを信じたい。できればこれからも、いくつになっても。
楽譜に一通り目を通してふと左腕の時計を見ると時刻は午後五時ぴったり。
わかりやすいようにと思って入口付近のテラス席で待っていたものの、和樹も、その瀬崎魁も現れないことに朋美は深呼吸に似たため息をひとつついた。
初対面の人にも好感を持たれやすい、残暑にもちょうどよい紺色のワンピース。それから7センチヒールのベージュのサンダルに、控えめで、だけど品のいいジュエリー。時計もシンプルで、でも仕事っぽくないもの。香水はスペインのファッションブランドが出している夏の限定。情熱的でかわいらしくてお気に入りだった。前日はパックもしたし髪の毛のトリートメントも怠らなかった。
自分なりにパーフェクトと言えるほど整えて、それに見合ういいことがあればいいけれど、と思いながら、もう一度時計を見る。
時刻は午後五時十五分。遅刻なんてと思いながら顔を上げると、左手首の時計の向こう、柱を一本超えたテラス席のほうから視線を感じて朋美は顔を上げる。
はっきりした二重の目。形のいい高い鼻。少し長め、柔らかそうな髪の毛。どちらかというとかわいらしい顔立ち。座っていたけど、決して大きすぎない、けれど小柄でもない。瞳を奪われる、というのはこのことか。朋美はただその彼と視線を交わし合った。世界から音が消えるほど、その視線の先に夢中だった。
写真で見たよりも骨格がしっかりしていて男らしい感じだったけれど、もしかして、と朋美思うと、彼は食べかけのパニーニとアイスコーヒーを置いて、言った。
「朋美」
唐突に名前を呼ばれて、朋美は目を丸くする。初めて聞く声。でも自分の名前がこれほど甘い響きをしていたのかと思うような声。
「和樹の友達の朋美だ。」
間違いない、と言う顔で彼は笑った。
名前を呼ばれたこと以上に、その笑顔に思わず体が震えたのは、彼に会えた喜びなのか、それとも違う何かなのか、強烈な西日を浴びながら、とにかく不思議な気持ちだった。なぜか変な人だったら早く帰るのよ、という瑛子の言葉が唐突に脳裏に蘇るほどに。時間の流れが止まったか、狂ったか、と思うような一瞬だった。
返事も身動きもできない。すべての五感を奪われたみたいに。