キネンオケ
「あんな人、世界中どこを探しても他にいないわ!」
それは喜びに満ちた声、ではなかった。
「身震いがしたもの!」
それもまたもちろんいい意味ではなかった。
不思議すぎるわ、と。興奮した声の朋美に電話越しで瑛子は静かに相槌をうつ。そう、大変だったのね。おつかれさまと。
「顔もいいし経歴も申し分ないけれど、もし和樹に何か言われたら学生はちょっと、って、うまく言っておいて。」
朋美に言われて、瑛子は穏やかに返事をした。大丈夫よ、と。
近いうちにランチに行こうね、また練習に付き合ってね、と言って、朋美は電話を切った。
「大丈夫?」
目の前で心配そうにそう話しかけるのは瑛子の旦那の博樹だ。焼きたてだったローズマリー風味のチキンはすっかり冷めていた。
「ごめんなさいね、夕食の途中で電話に出て」
「いや、僕は大丈夫だけど、何かあった?」
博樹は心配そうに瑛子の手元のスマートフォンを見た。話の相手が朋美であることは、電話に出る前に言ってあった。
久々にゆっくりと二人で夕食をとっていた日曜日。ここのところ博樹が学会や研修などで忙しかったことに加え、瑛子も実家の用事などで落ち着かなかったのだ。そういえば一連のことを話していなかった、と思って、瑛子は朋美の話をした。
「さすが和樹よね。そんなおもしろい人を紹介するなんて」
義弟のことをわずかに困ったような、でも愛のある顔でそう言う瑛子に博樹はわずかに顔をしかめて何かを考えているようだった。
どうしたの?と瑛子が聞くと博樹が言った。
「瀬崎先生の息子さんかな。」
「知っているの?」
瑛子が目を丸くして聞いた。博樹は丁寧に鶏肉を切り分けながら淡々と言った。
「瑛子のお父さんも知ってるんじゃないかな。和樹の同級生に息子さんがいるって聞いていたんだ。僕は年もちょっと離れてるし詳しく知らないけど、確か」
確か、の続きがあるような様子だったので、瑛子はじっと待ったが、博樹はフォークに差した鶏肉を口に入れた。話の続きを気にしつつ、瑛子は急かしては悪いと思って、口を湿らす程度にワインを飲み、その、瀬崎先生と不思議な青年のことを想像してみた。どちらも会ったことのない人間なので、瑛子のなかではイマイチ想像できないままだ。
瀬崎先生。時間を戻す道具を作りたいと言っている東大の大学院生の魁。つながらないままの二人のことを瑛子が考えていると口の中のものを飲み込んだ博樹は、ゆっくりと言った。
「有名な脳外科の先生だったんだよ」
‘だった’
その過去形の言葉の意味に、今度は瑛子が顔をしかめた。突然世界から音が奪われる。
夕食前から流していたBGMのベートーヴェンが耳に入ってこない。
もしも壊れたものをもとに戻せる不思議な道具があったなら、ベートーヴェンは、自分の耳にあてたいと思うかもしれない。失われた聴力を取り戻すために。
懐かしいもの、過ぎ去ったもの、永遠に奪われたもの。
もしも手品や魔法のように時間を戻して手にすることができるなら、人は何を望むだろう。
今目の前にある博樹の大きな手、長い指。自分の名前を呼ぶ、落ち着いた愛おしい声。自分を見つめるきれいな目元。他の誰も持っていないもの。博樹だけが持つ、博樹の、大好きなところ。
過去も未来もいらない。今この瞬間が愛おしいだけ。だから今。今、ここにそれが欲しいだけ。懐かしいそれ。過ぎ去った、永遠に奪われた、決して失いたくなかったもの。
もしも時間を戻せる道具があったら、博樹は取り戻したいものってある?
そんなのんきなこと、とてもではないけど瑛子は聞けなかった。