キネンオケ
3
朋美はオケの仕事とは別でソロや仲間との小さな演奏会を開いていた。
それはオケとはまた違うとても楽しい時間で、先日の瑛子と練習もそのための準備だった。
東京郊外の市が所有する小さな文化会館は、数十人程度が入る小さな会場だったが、観客と演奏者とがいい距離で音楽をシェアできるのがよかった。大きなホールで演奏できることだけが喜びではない。いつだっていい音楽を届けたいだけ。周囲に宣伝した甲斐もあって、この日は満席。
堂々と、自信をもって朋美がステージに出た瞬間から客席から拍手が起こる。歓迎してもらっていると思うと力が湧いてくる。それに全力で応えたい。朋美は舞台中央に立って正面を見ておじぎをする。さらに大きな拍手が与えられる。
頭を上げてまっすぐ前を見ると、中央やや後部座席に、一人の男性がいるのが目に入る。観客の顔を確認するほどの余裕なんていつもないのに、と思いながら、朋美は心臓が強く脈打つのを感じた。
見覚えのある顔。あの人、和樹の友達の、魁。
どうして今日ここに。それに魁と出会う前にチケットはsoldoutになっていたはずだった。どうして。
「朋美」
斜め後ろから伴奏のピアニストに声をかけられて我に返る。
「大丈夫?」
わずかな動揺、心のざわめきを感じ取ったかのように彼女は言った。
「もちろん」
朋美は言った。堂々と、笑顔で。
ステージの上から知り合いの顔が見えることなんて珍しいことでもないし、いつもどおりで、と思って手に持っていたヴァイオリンを首にあてる。弓を持って、ピアノと音を合わせて、大丈夫。瞼を閉じて、深呼吸する。大丈夫。
先ほどの心のざわめきも、演奏が始まってしまえば、もうそれしか頭になかった。次の音、伴奏の響き、あわさる音色、曲への想い。全身で感じ取って奏でるだけ。今。今、この瞬間しかない。今、全力でやらなかったら後悔する。
それなのに、過去を取り戻そうだなんてばかみたいな話。
ブラームスのヴァイオリンソナタ第一番。別名『雨の歌』とも言われ、クララ・シューマンは「天国までもっていきたい」と言ったほどだといわれた、やさしい雨の歌。
やさしい雨を降らせるつもりで、ヴァイオリンを奏でる。聴きに来てくださった人すべてに、この甘くやさしい雨が届きますように。わずかなひとときでも、その心があたたまりますように。
朋美はステージを去るとき、もう一度客席中央の魁を見た。最後までいてくれたんだ、と思った。それは、嬉しいか嬉しくないかで言ったら、嬉しいことだったけれど。
「本当に、ばかみたい」
実験だとか研究だとか、結局何をやってるんだか知らないけれど、忙しいはずなのに二時間もしっかり音楽を聴いてくれて。そう思った。