キネンオケ


コンサートを終えて挨拶をして、やっと一息つきに楽屋に戻ってスマートフォンを見ると知らない番号からメッセージが届いていた。

でも、本文を見る前から送り主が誰なのかを朋美は想像できた。
そっと指で触れてメッセージを見る。やっぱり、魁だった。

素晴らしい演奏に乾杯を、と。待ち合わせの店を指定される。

どうしようかな、と思いながら、わざわざ来てくれたことを思えば一杯くらいは付き合うべきだろう。そんな言い訳を考えながらも、心の奥底では、もう一度話をしてみたい気持ちになっていたのかもしれない。本当に変人かどう確かめたかったのかもしれない。彼に出会ったときの不思議な感覚が、どういうところからくるのか、きちんと知りたかったのかもしれない。こんなふうに自分の演奏を聴きに来てくれるとは思っていなかったから。

そんなことを思って、指定された店内に入ると彼は驚きもせず、ごく自然に微笑んだ。朋美が来るであろうことを確信していたかのように。先日見た時と変わらない、穏やかな笑顔。舞台の上で華やかな衣装に身を包んで、たくさんの拍手を浴びていた女を待っていたのではなく、ステージを降りてドレスを脱いだ普段着の自分を待ってくれていたのだな、と朋美は思った。

朋美が席に着こうとしたところで、すかさず彼はウェイターに乾杯用のカヴァを2杯頼んでくれた。変人なのに、こういうことはきちんとできるんだな、と朋美が感心していると、細いグラスがすぐに運ばれてきて、ごく淡いイエローの液体を傾けた。グラスからは静かに気泡が昇っていく。
オリーブの実をつまみながら魁が言った。

「実家が、近所なんだ」
「あら」
「二つ隣の駅。その三つ隣の駅に中学高校。和樹と一緒だったとこね」

魁の話を聞きながら、いつのまにか頼んでもらったワインでのどの渇きを潤していた。すっかり彼のペースということに気づかないほど、朋美はごく自然にそこにいた。

「どうして、今日」

そこまでいったところで、魁は聞きたかったことがわかったようで、先日見せた不思議な笑顔で言った。

「コンサート情報はもらった名刺に書いてあったSNSで確認。それで問い合わせたらちょうどキャンセルが1枚あったっていう話。すごい強運でしょ」

本当だろうか、タイムふろしきを作りたいなんて言うような人だから、何か違う手段を使ったのではと考えてしまう。内心疑わしい気持ちで思ったが、顔に出さないように十分に気を付けて朋美は微笑んだ。

「せっかくだし聴いてみたいなって思ったんだよ。理由は、単純にそれだけ」

言いながら彼は一口サイズの、オリーブオイルにまみれたタコをひょいっと摘まみ上げて口に入れた。

本当に?と思いながらも、それは朋美にとってとても嬉しい言葉だった。
もしかしたら今は「もう一度あなたに会いたくて」と言われるよりも、はるかに嬉しく、素直に聞ける言葉だっただろう。

向かい合って食事をする魁は、ごく普通の好青年だった。カジュアルなシャツとパンツだったけれど整った身なりで、彼と食事をしたいと思う女の子なんて山ほどいそうだった。
食べ方もきれいだった。気軽なバルで、特別なマナーや、難しい作法が必要な場所ではなかったが、基本的なこと、音を立てないとかごく普通の、でも一緒に食事をしている人を不快にさせない食べ方ができていた。やっぱり育ちがいいんだろうなと朋美は思いながら、ゆっくりと、彼と同じように丁寧に貝の身をはずしていた。

「考えていることをあてようか」

唐突に魁が言った。朋美はフォークに差したままの食べ物を口に入れられず、正面を見た。

「こうしていると普通の人みたい」

どう?と魁は笑った。その言葉に思わず朋美の表情が固まる。
もういいや、と思って朋美は軽く笑った。気を遣わないことに決めたのだ。

「だって、どう考えたって変な人って思うでしょう?初対面でいきなりタイムふろしきを作りたいなんて言われて。」

気取る必要もないと思って、ぐっとグラスを傾けて一気に飲み干した。翌日は午後からの練習だし、急いで帰る必要はない。せいぜいこの時間を楽しもう。朋美はそう思った。

「話の、続きをしようか」

魁の、不思議な笑み。思わず身震いがしてしまいそうなほど。その他にはない感じが、もしかしたらいい意味でのものかもしれない。そんなのは、今はまだわからない。でもその顔には少しも嫌な感じはなくて、つられて笑ってしまった。今、一緒にいたい、と思った。

「そうね。どういう研究をして、どうやって不思議な道具を作るつもりなのか聞かせてもらおうかしら。」

朋美の言葉に魁は笑って、もう一度乾杯しようとビールを2つ頼んだ。

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