【1/2 英語版③巻オーディオブック発売・電子先行③巻発売中】竜の番のキノコ姫 ~運命だと婚約破棄されたら、キノコの変態がやってきました~ 第2章
37 情けなさが、揺るがない
その声が聞こえたと同時に、アニエスは肩を震わせる。
急に声をかけられて驚いたからだけではない。
何年もの間ずっと聞いていたもののはずなのに、ひとかけらの懐かしさも感じない自分に驚いたのだ。
「……フィリップ様」
振り返れば、予想通りの人物がバルコニーに立っていた。
少しやつれたような気もするが、それよりも何故かかぶったままの帽子の方が気になった。
「アニエス、久しぶりだな」
フィリップはそう言って近付くと、すぐに不機嫌そうに眉を顰めた。
「また、そんな色のドレスを着て。恥ずかしいとは思わないのか」
「……フィリップ様には関係ありません」
何とかそう返したが、ジェロームとのやり取りで少し後ろ向きになっていたアニエスの胸に、フィリップの言葉が突き刺さる。
アニエスは悪くないとわかっていても、長年一緒だった瞳と声に否定されるのは心に負担がかかるのだ。
「クロードが贈ったのか」
アニエスがうなずくと、フィリップは忌々しそうに舌打ちをした。
「……アニエス。おまえのキノコのせいなんだよな」
「何がですか?」
よくわからなくて問い返すと、フィリップはおもむろに帽子を取った。
頭頂部の毛が――ない。
黄褐色の髪の毛が生えているはずの部分には、赤い皮膚が覗いていた。
ちょうど頭の上に丸い皿でも乗せたかのような状態に、驚けばいいのか笑えばいいのかわからず、ただ瞬いた。
「王太子殿下の婚姻を祝う舞踏会でおまえにキノコまみれにされてから、こうなった。頭皮がただれて、それから手足と……とにかく色々痛みがあって、このひと月ろくに動けなかった。これは、アニエスのキノコのせいだろう?」
忌々しそうにそう言うと、フィリップはすぐに帽子をかぶる。
どうやらキノコの総攻撃は見事に命中していたらしいが、おかげでアニエスのせいになっているようだ。
「でも、私はキノコを狙って生やすことはできません」
「何であろうとも、キノコはすべておまえのせいだ!」
「そんな」
言いがかりだと言いたいところではあるが、確かにキノコはアニエスのせいで生えたのだろう。
となれば、フィリップの頭皮がいたたまれないことになったのも、アニエスに何の責もないとは言えないのかもしれない。
「……すみません、でした」
一応の義理として仕方なく謝罪すると、フィリップは満足そうな笑みを返してきた。
「そうだ。そうやって、俺に従っていればいい。……クロードと婚約していないだろうな」
「まだ、ですけれど」
「それでいい」
「いいって何ですか。フィリップ様には関係のない話ですよね」
偉そうに言っているが、どういうつもりなのだろう。
とっくに婚約解消しているのだから、今はただの伯爵令嬢と王族の端くれ。
挨拶ならまだしも、婚約に関して指図される謂れなどない。
アニエスの苛立ちが影響したのか、フィリップの肩にはいつの間にかキノコが生えている。
褐色のヒトデの上に球体が乗り、まるで皮を剥いたオレンジのような姿は、ツチグーリだろう。
また以前のようにフィリップに胞子をぶちまけるのだろうかとアニエスは警戒するが、当のフィリップはまったく気付いていない。
「関係ある」
「ありません」
「サビーナでは社交の助けとして力不足な部分がある。アニエス、おまえが補うべきだ」
本当に、何を言っているのだろう、このへなちょこ王族は。
当然とばかりに押し付けられた内容に、驚きを通り越して呆れてしまう。
「何ですか、それ。勝手な話ですね」
「勝手じゃない。今までそうしていただろう。同じことだ」
「それは私とフィリップ様が婚約していたからです。婚約解消した今、無関係の私にそんな義務はありません。それにバルテ侯爵令嬢がいるでしょう。あちらにお願いするか、ご自分で努力なさればよろしいのでは?」
面倒ではあるが丁寧に説明したのに、フィリップは納得するどころか更に不機嫌そうに表情を曇らせる。
「おまえが俺のそばにいれば、すべて片付く」
「婚約破棄を宣言してきたのはフィリップ様ですよ? もう無関係です」
「関係ある!」
「ありません!」
「――そこまでです」
癇癪を起こした状態のフィリップと口論をしていると、静かな声が割って入った。
アニエスとフィリップが同時に顔を向けると、バルコニーの入り口には鉛色の髪と鈍色の瞳の青年が立っている。
第三王子のアルマンだとアニエスが認識するよりも早く、フィリップが小さく舌打ちをするのが聞こえた。
「アニエス嬢は、既に王族にクロードの番として紹介されています。いつまで無様に縋りついているのですか、フィリップ」
フィリップは忌々しそうにしながらもアルマンには口答えをせず、アニエスから離れていく。
さすがは強い者には逆らえないフィリップ、情けなさが揺るがない。
妙なところに感心していると、肩にキノコを乗せたフィリップが振り返る。
「アニエス。また今度、話そう」
「話すことはありません」
「……フィリップ」
アルマンに名前を呼ばれると、フィリップは逃げるようにバルコニーから去って行った。
「あの、ありがとうございました」
アルマンが来てくれなければ、フィリップと不毛な押し問答が続いていただろう。
「クロードが陛下のところにいたので、様子を見に来たのですが」
そう言うと、アルマンは困ったようにため息をついた。
「フィリップがああいう人間だと、あなたが一番知っているでしょう? ――警戒心が足りませんね」
「す、すみません」
別にフィリップと会いたくて会ったわけではないのだが、そう言われてしまえば反論の余地はない。
アニエスがバルコニーに出なければ、恐らくフィリップは近付いてこなかった。
そう考えれば、この結果はアニエスのせいだとも言える。
頑張ろうと決めた矢先から、早速アルマンに迷惑をかけてしまった自分が情けない。
「……クロードのところまで送りますよ」
「はい、すみません。ありがとうございます」
俯きそうになるアニエスに気付いたのか、アルマンはそれ以上何も言わずに手を引いてくれる。
会場内に戻るとすぐに、クロードが駆け寄ってくるのが見えた。
============
【今日のキノコ】
ツチグリ(土栗)
褐色のヒトデのような外皮の真ん中に球体があり、皮を剥いたオレンジのような見た目。
成熟すると球体の中心部分に穴が開いて胞子を放出する。
一応食べられるが、一般的にはあまり食されない。
アニエスにふざけたことを言うフィリップに対して抗議すべく生えてきた。
「あんまりうるさいと、胞子をぶちまけるよ」と脅しているが、キノコなので伝わっていない。
急に声をかけられて驚いたからだけではない。
何年もの間ずっと聞いていたもののはずなのに、ひとかけらの懐かしさも感じない自分に驚いたのだ。
「……フィリップ様」
振り返れば、予想通りの人物がバルコニーに立っていた。
少しやつれたような気もするが、それよりも何故かかぶったままの帽子の方が気になった。
「アニエス、久しぶりだな」
フィリップはそう言って近付くと、すぐに不機嫌そうに眉を顰めた。
「また、そんな色のドレスを着て。恥ずかしいとは思わないのか」
「……フィリップ様には関係ありません」
何とかそう返したが、ジェロームとのやり取りで少し後ろ向きになっていたアニエスの胸に、フィリップの言葉が突き刺さる。
アニエスは悪くないとわかっていても、長年一緒だった瞳と声に否定されるのは心に負担がかかるのだ。
「クロードが贈ったのか」
アニエスがうなずくと、フィリップは忌々しそうに舌打ちをした。
「……アニエス。おまえのキノコのせいなんだよな」
「何がですか?」
よくわからなくて問い返すと、フィリップはおもむろに帽子を取った。
頭頂部の毛が――ない。
黄褐色の髪の毛が生えているはずの部分には、赤い皮膚が覗いていた。
ちょうど頭の上に丸い皿でも乗せたかのような状態に、驚けばいいのか笑えばいいのかわからず、ただ瞬いた。
「王太子殿下の婚姻を祝う舞踏会でおまえにキノコまみれにされてから、こうなった。頭皮がただれて、それから手足と……とにかく色々痛みがあって、このひと月ろくに動けなかった。これは、アニエスのキノコのせいだろう?」
忌々しそうにそう言うと、フィリップはすぐに帽子をかぶる。
どうやらキノコの総攻撃は見事に命中していたらしいが、おかげでアニエスのせいになっているようだ。
「でも、私はキノコを狙って生やすことはできません」
「何であろうとも、キノコはすべておまえのせいだ!」
「そんな」
言いがかりだと言いたいところではあるが、確かにキノコはアニエスのせいで生えたのだろう。
となれば、フィリップの頭皮がいたたまれないことになったのも、アニエスに何の責もないとは言えないのかもしれない。
「……すみません、でした」
一応の義理として仕方なく謝罪すると、フィリップは満足そうな笑みを返してきた。
「そうだ。そうやって、俺に従っていればいい。……クロードと婚約していないだろうな」
「まだ、ですけれど」
「それでいい」
「いいって何ですか。フィリップ様には関係のない話ですよね」
偉そうに言っているが、どういうつもりなのだろう。
とっくに婚約解消しているのだから、今はただの伯爵令嬢と王族の端くれ。
挨拶ならまだしも、婚約に関して指図される謂れなどない。
アニエスの苛立ちが影響したのか、フィリップの肩にはいつの間にかキノコが生えている。
褐色のヒトデの上に球体が乗り、まるで皮を剥いたオレンジのような姿は、ツチグーリだろう。
また以前のようにフィリップに胞子をぶちまけるのだろうかとアニエスは警戒するが、当のフィリップはまったく気付いていない。
「関係ある」
「ありません」
「サビーナでは社交の助けとして力不足な部分がある。アニエス、おまえが補うべきだ」
本当に、何を言っているのだろう、このへなちょこ王族は。
当然とばかりに押し付けられた内容に、驚きを通り越して呆れてしまう。
「何ですか、それ。勝手な話ですね」
「勝手じゃない。今までそうしていただろう。同じことだ」
「それは私とフィリップ様が婚約していたからです。婚約解消した今、無関係の私にそんな義務はありません。それにバルテ侯爵令嬢がいるでしょう。あちらにお願いするか、ご自分で努力なさればよろしいのでは?」
面倒ではあるが丁寧に説明したのに、フィリップは納得するどころか更に不機嫌そうに表情を曇らせる。
「おまえが俺のそばにいれば、すべて片付く」
「婚約破棄を宣言してきたのはフィリップ様ですよ? もう無関係です」
「関係ある!」
「ありません!」
「――そこまでです」
癇癪を起こした状態のフィリップと口論をしていると、静かな声が割って入った。
アニエスとフィリップが同時に顔を向けると、バルコニーの入り口には鉛色の髪と鈍色の瞳の青年が立っている。
第三王子のアルマンだとアニエスが認識するよりも早く、フィリップが小さく舌打ちをするのが聞こえた。
「アニエス嬢は、既に王族にクロードの番として紹介されています。いつまで無様に縋りついているのですか、フィリップ」
フィリップは忌々しそうにしながらもアルマンには口答えをせず、アニエスから離れていく。
さすがは強い者には逆らえないフィリップ、情けなさが揺るがない。
妙なところに感心していると、肩にキノコを乗せたフィリップが振り返る。
「アニエス。また今度、話そう」
「話すことはありません」
「……フィリップ」
アルマンに名前を呼ばれると、フィリップは逃げるようにバルコニーから去って行った。
「あの、ありがとうございました」
アルマンが来てくれなければ、フィリップと不毛な押し問答が続いていただろう。
「クロードが陛下のところにいたので、様子を見に来たのですが」
そう言うと、アルマンは困ったようにため息をついた。
「フィリップがああいう人間だと、あなたが一番知っているでしょう? ――警戒心が足りませんね」
「す、すみません」
別にフィリップと会いたくて会ったわけではないのだが、そう言われてしまえば反論の余地はない。
アニエスがバルコニーに出なければ、恐らくフィリップは近付いてこなかった。
そう考えれば、この結果はアニエスのせいだとも言える。
頑張ろうと決めた矢先から、早速アルマンに迷惑をかけてしまった自分が情けない。
「……クロードのところまで送りますよ」
「はい、すみません。ありがとうございます」
俯きそうになるアニエスに気付いたのか、アルマンはそれ以上何も言わずに手を引いてくれる。
会場内に戻るとすぐに、クロードが駆け寄ってくるのが見えた。
============
【今日のキノコ】
ツチグリ(土栗)
褐色のヒトデのような外皮の真ん中に球体があり、皮を剥いたオレンジのような見た目。
成熟すると球体の中心部分に穴が開いて胞子を放出する。
一応食べられるが、一般的にはあまり食されない。
アニエスにふざけたことを言うフィリップに対して抗議すべく生えてきた。
「あんまりうるさいと、胞子をぶちまけるよ」と脅しているが、キノコなので伝わっていない。