短編『おやすみ、常盤さん』
おやすみ、常盤さん
「おやすみ、常盤さん」
僕のそのひと声は、この狭い6帖の空間に虚しく霧散した。
どちらかが寝てしまったら、起きている方が電話を切るという約束になっている。
と言っても、その役目を果たすのは僕ばかりであるが。
一度くらい、彼女の「おやすみ」を聞いて眠ってみたいなあとぼんやり思う。
彼女の応答がなくなって、夢想しているうちに、静かな寝息が聞こえてきた。
僕はいつも、すぐには電話を切らずしばらくそのままにしている。
なんだかんだ言って、僕はこの秘密の時間も気に入っているのだ。
心地よいリズムに耳を傾けるなかで、寝言で僕の名前を呼んでくれやしないかとつい期待してしまう。
秋津くんと呼ばれることはもとより、登一くん、なんてうっかり下の名前で呼ばれるのも想像してみた。
けれども、実際にそんなことはあるはずもなく、徒に時間だけが過ぎていく。
そしてたまに、いびきが聞こえてくることもある。
「ふっ」
思わず笑みがこぼれた。
可愛くないその音までこんなに愛しく感じるなんて、重症である。
僕がいびきを聞いたと知ったら、彼女はどんな顔をするのだろう。
怒るだろうか。
それとも、恥ずかしがるだろうか。
そんな想像をしていると、漸く眠れそうな気配を感じたので、終話ボタンを押してベッドに身を沈めた。
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