社長、それは忘れて下さい!?

 ずっと思い込んでいた『涼花の事を抱いた人は、その記憶を失う』という不思議な出来事。龍悟に言わせると『ファンタジー』らしいそれは、本当は『涼花にキスをした人は、その記憶を失う』の間違いだったのだ。

 だから龍悟は最初の二回の事を覚えていた。何故ならその時、龍悟は涼花とキスなどしなかったから。恋人のような触れ合いなどない、乾いた関係だったから。

 だが皮肉なことに、乾いた関係から愛のある関係になり唇を重ねると、記憶は脆く崩れてしまう。甘い思い出は何の気配も何の知らせもなく、脳の中からいとも簡単に抜け落ちる。

 はじめは龍悟が記憶力に優れた特別な存在だから、涼花を抱いたことを忘れないのだと思っていた。驚きと共に、まるで運命の人に巡り合ったかのような喜びを感じていた。けれど違った。それすら涼花の勘違いだった。

 何がファンタジーなんだろう。
 こんなもの、呪い以外の何でもない。

「俺は……忘れてるんだな?」

 龍悟の呻くような低い声が耳に届く。涼花がようやく顔を上げると、龍悟がこちらをじっと見つめていた。いつもの自信と美しさを兼ね備えた聖なる獣のような覇気はなく、ただ涼花に対する申し訳なさだけを背負い込んだ、苦しみと悲しみを混ぜた苦悶の表情を浮かべて。

 ちがう。
 そんな顔をさせたいわけじゃない。

 何よりも愛しい人に、そんな顔なんてして欲しくない。

「社長……だいじょうぶです」

 自分のために、そんな辛い顔をしないで欲しい。
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