社長、それは忘れて下さい!?

「大丈夫。……うん、大丈夫」

 自己暗示のように、同じ言葉を繰り返す。出来ることならこのまま秘書の仕事を辞めてしまいたい気持ちでいっぱいだった。自分が傷付かず、龍悟を傷付けないために、このまま逃げ出してしまえたらどんなに楽だろうと思う。

 だがそんな事をすれば龍悟や旭だけではなく、会社全体に迷惑をかけてしまう。明確な理由を告げずに『退職します』がまかり通るほど、社会は甘くない。何より多忙な業務をこなす龍悟のサポート役に突然穴をあけ、これ以上彼に迷惑をかけるようなことはしたくない。

 もし龍悟が涼花の顔を見るのも嫌だと言うのなら、その時は潔く異動願いを出すか退職しようと思う。けれどまだ秘書として涼花を必要としてくれるなら、まだ頑張れるから。

 恋を忘れる決意を誓う。優しい龍悟の瞳を、声を、指を、温度を。早く忘れられるように、自分の心に強くて深い自己暗示をかける。

「大丈夫! よし!」

 意気込んでベッドの上に身体を起こすと、窓の外を眺める。晴れ渡った綺麗な青空を見ていると、ふと自分の詰めが甘かったことに気が付いた。

 今朝、ホテルの部屋を出る前に龍悟にキスをすればよかった。あの時口付けておけば、きっと龍悟は今朝のやりとりを忘れてくれただろう。

 そうすれば明日もいつもの月曜日と同じく、彼は何も気に病むことなく、何も心配することもなく、普段通りに出社できただろう。涼花との夜も、涼花とのやりとりも覚えていないのなら。
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