社長、それは忘れて下さい!?
「秋野……」
デスクに手を付いて涼花の逃げ道を塞ぐと、間近で龍悟に見下ろされる。涼花は何も言えずただその顔を見上げたが、そこでようやく彼が悲し気な表情をしていることに気が付いた。逆光と後ろめたさでまともに見れなかった龍悟の切ない表情に、涼花はそっと胸を痛めた。
「昨日は悪かった。お前を……傷付けてしまったな」
「……」
龍悟の言葉を聞いても、涼花には返答の言葉さえ出てこない。昨日家に帰ってから考えたあれこれも何一つとして思い出せない。
涼花は昨日、秘書として龍悟の傍にいるために色んな事を考えた。今までの龍悟との出来事は全て胸の奥に仕舞い込み、仕事に誠心誠意打ち込もうと決めた。龍悟に問われたら当り障りがなく切り抜けられる返答も、全部シミュレーションしたというのに。
まさか出社直後にいつものルーティンや脳内シミュレーションを崩されるとは想像しておらず、完全に出鼻を挫かれてしまった。
「俺は忘れないと約束したのに……」
龍悟の顔を見つめると、彼は苦虫を噛み潰したような表情で後悔の言葉を呟いた。
また気を遣わせている。
悲しませている。
龍悟の辛さと不安が、涼花には手に取るようによくわかる。忘れた事そのものを忘れた人は、こんな表情などしない。忘れた事を覚えているからこそ、こんなに辛くて、不安で、苦しい気持ちになるのだ。