社長、それは忘れて下さい!?

 旭の『違和感』が『確信』に変わったのは、水曜の夕方だった。

 その日は、グラン・ルーナ社が経営する割烹料理屋『御柳亭』の新作メニューに使う魚介類の仕入れ先が決まり、社長室でその契約を行う手筈になっていた。

 御柳亭の板前長たっての希望で使用されることになった魚介類は、どれも大きくて旨味が強い上質なものばかり。今日無事に契約すれば秋の味覚シーズンまでにメニュー開発の最終調整が間に合う予定だった。

 ところが海鮮問屋の社長が、契約の段階まで来たこのタイミングで突然難色を示した。

「やはりこの値段で出せるほど、うちの商品は安くないですよ、一ノ宮社長」

 恐らく彼は、本気で契約を渋っているわけではない。少しでも自分に利がある条件にしたいという欲の現れだろう。

 だがわだかまりを持ったまま契約を進めるわけにも、時期を考えると決裂するわけにもいかない。ここで契約内容を組み直すことも可能だが、それならあらゆる部署の社員が時間と労力を注ぎ込み、商談を重ねてきたこれまでの努力は何だったのだろうと思ってしまう。

 龍悟は完璧な笑みを崩さない。むしろ傍で見ていた旭の方が苛立ってしまう。

 身体を揺らすと龍悟に『落ち着け』と目線で合図されてしまい、仕方がなしに感情を胸の奥に仕舞い込む。だがこちらを見つめる問屋の社長も不敵な笑みを浮かべたまま何も言わない。

 しん、と空気が張り詰める。龍悟はどうしたものかと考えて小さく鼻を鳴らしたが、その直後、静寂を砕くノック音が部屋の中に響いた。
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