群青とスニーカー
「そこに突っ立ってないで、こっちに来たらどうだ?」
わたしは驚いてモップを盛大に倒してしまった。柄の固い部分が床に触れて、甲高い音を立てる。カラカラと大きな音に、いくつもの視線が一斉に振り向く。
「……君は本当に間抜けだな」
 やれやれと肩をすくめられて、わたしはやつのいつもの皮肉にイラっときた。こいつ、やっぱりむかつく。言い返そうと息を吸ったが、途中でやめた。子供たちのつぶらな瞳がこちらを見ている。さすがに衆人環視の前で言い返す度胸はわたしにはない。
 ぐっと息をこらえ、わたしは言われるままに御影へ近づこうとした。しかし進めなかった。小さな子供が、服の袖を引いていたからだ。
「この人、お兄ちゃんのかのじょ?」
 とんでもないことを言う子だ。あわてて否定しようとしたわたしをしりめに、御影は皮肉っぽい笑みを浮かべて、「同級生だ」と優しく言った。
「どうきゅうせい? 友達のこと?」
「少し違うが……まあ、そんなものだろう」
勝手に友達扱いするとは、何の嫌がらせだろう。けれど、小さな子供たちの前だ。いつものように大声を張り上げることなんてできない。それが不満となって胸の内に渦巻いた。
「……仁保」
 ふいに名前を呼ばれて、わたしはびくりと肩を震わせた。
「このことは誰にも言うな。家には何も言わずに出かけたんだ」
 なぜかというと、そんな御影の声はいつもの皮肉屋ぶりと違って、ガラスがはじけて壊れる寸前のような、切実な響きを帯びていたからだ。
 そんなふうだから、わたしはいつもの憎まれ口を引っ込めて、無言で三回ほど頷いた。
 御影はそれから無言で手持ちの絵本に目をやると、子供たちに優しく問いかける。
「もうこれは読み終わってしまったのだったな。次はどれがいい?」
「おれ、こっちがいい!」
「あたしはこっち!」
「ふふ。俺は一人しかいないから、一冊ずつしか読めないぞ。みんなで、ケンカせずに決めろ」
 口角を上げて微笑む御影の姿は、なんだかうっすらと輝いているように見えた。いつもの猫被りではなく、心底楽しいから笑っているといった表情だった。
「……だから、なぜそこに突っ立っているんだ? 君は仕事中なんだろう。サボっていてもいいのか?」
 気づけば、もうすぐトイレを点検する時間だった。そしてこのフロアをモップがけするのを忘れていた。
「……あなた、何時までここにいるの?」
「暗くなる前までは」
「じゃあ、終わったらわたしも混ざる」
「……は?」
 御影の眉が意外そうに上げられる。わたしがそう言ったのに、子供たちが嬉しそうにこちらを見てくれているのがわかった。
「お姉ちゃんも遊んでくれるの?」
「じゃあお兄ちゃんがオオカミで、お姉ちゃんがお姫様の役ね」
 わいわいと子供たちが盛り上がるのを見て、ふと自分の弟と妹を思い出した。あの二人も、未だにわたしが遊んであげると、素直に喜んでくれる。
「勝手にしてくれ」
 御影が諦めたようにそう言う。こいつのこんな表情が見られるなんて、ここで働いていてよかったかもしれない。そう思った。
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