あの子が空を見上げる理由
こんなにも満ち足りた気持ちで目覚めたのは久しぶりだった。
六畳一間の宿直室。敷きっぱなしのせんべい布団から体を起こす。部屋の片隅には一口のガスコンロと小さなシンクだけの簡素なキッチンがある。そのシンクで正人は顔を洗い、着替えようとしていつもの紺色の作業着がないことに気づいた。昨日、美葉が洗濯してくれたのだ。迷彩柄の大きなリュックサックを探る。この町に来るとき、全ての荷物はこの中に入れてきた。着替えは、下着と靴下が二組ずつ。そして、カーキ色の作業着。祖父からもらい、まだタグがついたままの新品だ。
「なんかもったいない気がする。」
そうつぶやき、タグを鋏で切って袖を通す。
らくだ色のスエットの上下とブリーフを畳む。洗って返すべきだろう。でも、水洗いしか出来ない。洗濯機もなければ、洗濯用の洗剤もない。
そこで、はたと気づく。
昨日世話になった美葉の家は、生活必需品を売る店だと言った。これまで、どこに店があるのか分からず何も手に入れられずに困っていた。なんと目の前にあったとは。もちろん、収入がないので散財するわけにはいかないが、数百円の洗剤を買う位の金は持っている。
正人は財布から五百円玉を取り出し、握りしめて転がるように階段を駆け下り、体育館を飛び出した。
ちょうど、店の入り口から美葉が外に出てきたところだった。
腰まであるまっすぐな黒髪を無造作に一つに束ねている。
「美葉さん!」
正人は自転車に向かって歩き出す美葉の背中に声をかけた。
美葉の存在は目を引く。大輪の芍薬の花が咲いているようだと思う。振り返って小首をかしげる姿は、そよ風に薄紅色の花が揺れているようだ。
「美葉さん!おはようございます!昨日はどうもありがとうございました!」
美葉の前までたどり着くと、正人は深々と頭を下げた。
「どういたしまして。」
ぶっきらぼうは美葉の声が頭の上に聞こえる。美葉の足先が自転車に向かって一歩踏み出す。
「あの!洗剤ください!」
慌てて正人は声をかけた。
「はぁ?」
美葉は唇を半開きにし、正人の顔を凝視する。
「昨日お借りした洋服、手洗いですが洗ってお返しします。」
美葉ははぁ、と息を吐いた。
「お風呂場の横に洗濯機があったでしょ。そこに入れておいて。もうすぐお父さんが起きてくるから。よかったら朝食も一緒にどうぞ。お弁当も、作ってあるから。」
早口でそう言いながら、美葉は自転車のかごにリュックを入れる。
「お弁当まで!?」
正人は驚いて両手を口に当てた。
「二人分も三人分も一緒だから。」
自転車をこぎ出そうとして、ふと動きを止める。
「食器、洗ってくれるのはうれしいけど、伏せておいてくれたらいいので。違うところにしまわれちゃうと、探す時間がもったいないから。」
早口でそう言うと、今度こそ自転車を漕いでいってしまった。
正人が味噌汁を温めていると、寝ぼけ眼の和夫が食卓に顔を出した。正人の姿を見て、うわぁ、と驚きの声を上げる。
「なんで朝から君がここにいるんだ?」
もっともだ、と思いつつ、正人は深々と頭を下げた。
「おはようございます。昨日は大変お世話になり、ありがとうございました。今朝、美葉さんに朝食を食べて良いと許可をいただきまして、今、お父さんの分も一緒にご用意させていただいております。」
はぁ、と力ない返事をし、和夫は食卓に着いた。
炊飯器を開けると、炊きたての米が湯気を上げる。ご飯をよそい、味噌汁とともに和夫の前に並べる。食卓には、卵焼きと浅漬け、常備菜らしいひじきの煮物が並んである。どれも、箸がつけられた形跡がない。
「美葉さんは、朝ご飯食べなかったのですかね?」
正人は小首をかしげる。
まだ暗い時間から、店の前で掃き掃除をしたり、入り口のガラス戸を拭いたりしている姿を何度も見た。まさか高校生だとは思っていなかった。
「いただきます。」
正人が両手を合わせる。和夫はすでに味噌汁をすすっている。
「美葉さん、とても働き者ですね。」
正人は卵焼きを頬張った。卵の甘さとだしの香りが口いっぱいに広がる。
「料理上手で、美人で、素敵な娘さんですね。」
和夫は返事をせず、浅漬けを口に放り込んだ。ぽりぽりと胡瓜をかみしめる音がする。正人は味噌汁をすすった。豆腐とわかめと白ネギの味噌汁。鰹のだしが効いている。
「料理が、母さんの味に似てくる。」
胡瓜を飲み込んだ後、和夫が呟いた。
「卵焼きの味も、味噌汁の味も、母さんの作るのと大差ない。」
深いため息をつく。
「美葉は母さんがいた時と同じ日常を作ろうとする。店の事も、家の事も。料理の味も、献立も。まるで最初からいなかったみたいに、以前と同じ日常が毎日毎日やってくる。母親が死んで悲しむ様子もない。冷たくて、気ばっかり強い娘に育ってしまった。」
和夫はぽつり、ぽつりと呟いてから、味噌汁をすすった。
正人は何と応えて良いか分からず、視線をうろうろさせた。そして、八畳ほどの居間の片隅にある小さな仏壇を見つけた。正人は立ち上がり、引き寄せられるように仏壇のそばへ行き、正座をした。
仏壇の中で、美しい女性がこちらに微笑みかけている。三十代後半だろうか。美葉が大人になったら、このような女性になるのだろう。
「初めまして、美葉さんのお母さん。昨日はお嬢様に大変お世話になりました。ありがとうございました。」
正人は手を合わせ、小さく呟いて頭を下げた。
顔を上げ、両手を膝の上に置いてから、遺影の中の女性を改めて見つめる。何故か以前から知っている人のような親しみを感じる。今にも声をかけてくれそうな、優しい笑顔が、そこにある。
「奥さん、美人ですね。」
思わず正人は呟いた。少し間を置いて、ああ、と和夫の返事が聞こえた。
「ここらでは評判の美人で、優しくて、みんなの憧れだった。小学校六年の時、札幌から転校してきた。こんな片田舎に、都会から、こんなきれいな女の子がやってきたもんだから、大人も子供もみんな驚いたもんだ。当別の男子はみんな母さんを意識していた。俺は高嶺の花だと思って声一つかけることが出来なかった。まさか家に嫁に来ることになるとは、思ってもみなかった。」
和夫は、大きな息を吐き、呻くように言う。
「家に、嫁に来なければ。苦労をかけたから、こんなに早く…。」
和夫の言葉から、痛いような悲しみと苦しみが伝わってくる。この悲しみや苦しみを、自分も知っていると正人は思った。そして、少しは距離を置けるようになっていたと思っていたが、あまりにもリアルに蘇ってくる感覚にうろたえた。
膝の上の両手を、強く握る。拳に爪が食い込む。その拳に、ぽつり、ぽつりとしずくが落ちた。喉の奥が引きつるように苦しくなり、嗚咽が漏れる。涙が涙を呼ぶように、止まらなくなり、いつの間にか声を上げて泣いていた。
「な、なんであんたが泣く…?」
和夫の声に振り返ると、目を白黒させていた。
「だ、だって…。お父さん、奥さんをすごくすごく、愛しているのが…、分かって…。」
正人は拳で涙を拭う。
「大切が人が、いなくなると…、痛くて、苦しいじゃないですか…。」
拭っても、拭っても、涙と鼻水が止まらない。和夫はオロオロと立ち上がり、ティッシュペーパーの箱を正人の前に置いた。
正人を見下ろしながら、深い息を吐く。
「みんな、いい加減もう悲しむなと言う。でも、忘れたくないんだよ。少しでも忘れないようにしようとすると、悲しくなる。」
正人はティッシュペーパーを一枚取り出した。
「悲しい気持ちをそんな起用に出したり引っ込めたり、出来ないですよ。悲しいなら、悲しんでいて良いのではないでしょうか、お父さん。」
垂れてきた鼻水を拭い、思い切り鼻をかんだ。
頭の上で、和夫が小さく頷く気配がした。
「ありがとうよ…。」
呟きながら、ゴミ箱をティッシュペーパーの横に置く。
「でも、お父さんと呼ばれるのは…。抵抗がある。」
そう言って、自分も一枚ティッシュペーパーを取り、ちん、と鼻をかんだ。
暖かな日差しを背に受けながら、正人は体育館の玄関先に立っていた。
あちこちから、ポツポツと雪解け水が地面に落ちる音がしている。玄関先に、欅の一枚板を立てたり横にしたりしながら、ずっと長い間考え込んでいた。
「あー、こいつだ!」
風に乗って、誰かの叫ぶ声が聞こえた。間髪入れず自転車のブレーキ音が次々と背後に響いた。
高校の制服を着た男女が自転車に乗ったまま正人を眺めている。ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、正人を品定めしているようだ。背の高い二人の男子学生、ぽっちゃりとした女子高生、そして、女子高生よりも頭一つ小さな男子学生。背の小さな青年は、イヤホンをして正人に背を向けていた。
「俺らの小学校に越してきたの、あんた?」
健太が、体には小さな自転車から降りて、正人の前に立った。
「いえ、これは、町の小学校です。」
正人は真面目に答えた。
「当たり前だろ。でも、俺らの母校だ。」
挑発するように、健太が言う。その肩をまぁまぁ、と錬が叩く。
「いきなりそんなこと言ったら、喧嘩売ってるみたいじゃないの。やめなさいよ。」
佳音が、頬を膨らませていった。
「美葉から話を聞いて、興味を持ったんで。」
へへ、と錬が愛想笑いを浮かべながら言う。いきなりおかしな輩に絡まれて動揺していた正人は、美葉の名を聞いてほっと息をついた。
「なんだ、美葉さんのお友達?」
「そう、おれら五人、ションベンたれてた時から一緒。この小学校最後の卒業生だ。」
なぜか自慢するように胸を張って健太が言う。
「では、美葉さんの幼なじみさんなんですね。」
正人は背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「どうぞよろしくお願いいたします。」
あまり丁寧に頭を下げるので、つられて健太と錬と佳音も頭を下げる。陽汰だけが、イヤホンの音楽を聴きながらそっぽを向いている。健太と錬は顔を見合わせた。
「本当だ、なんか、変。」
ケタケタと笑い出す。
「変、って、美葉さんが僕のこと、そう言ったんですか。」
正人の問いに、二人は何度もうなずき、笑い声を大きくする。正人は傷つき、変か…。と呟いてうつむいた。
「でも、嫌な感じで話してたわけじゃないよ。」
慌てて、佳音が慰める。
「面白い、って意味の変だと思う。」
「面白い…。」
うつむいたまま、正人が呟く。
「久しぶりに美葉がすっごくしゃべってたから、かなり面白いと思ったんじゃね?いつも、参考書眺めながら弁当食って、そのまま昼休み中ずっと勉強してっからさ。」
錬もさすがに悪いと思ったのか、慰めるような口調で言う。
「そー、あいつ高校行ってから本当俺らとつるまなくなったよなー。」
頭の後ろに両手を組み合わせ、体をのけぞらせながら健太が言う。
「そりゃ、美葉は忙しいから。」
佳音が唇をとがらせる。
「そうですね。美葉さんは働き者で、忙しそうですね。」
正人が佳音の言葉に頷く。佳音は正人と目が合い、慌てて視線をそらした。その顔を見て、錬が、おや、という顔をした。
「で、おっさん、何してんの?」
健太が正人の顔を見下ろして言う。
「おっさん?」
正人はぶしつけな言葉にむっとした。
「だっておっさんじゃん。」
「失礼な、僕はまだ、二十二歳だ。おじさん扱いされたくないです。」
「二十代はおっさんだって。」
「君だってあっという間に二十代になりますよ!」
言い合う二人に、錬がまぁまぁ、と割って入る。
「実際、どんなことやってんのか、興味津々なわけ、俺ら。」
ヘラヘラとした口調で、錬が言う。正人は小首をかしげた。
「家具を作る仕事をしています。今は、美葉さんに看板を作るといいとアドバイスをいただき、どんな看板にしようか考えていたところです。看板って、何を書いたらいいものかと思って。」
健太と錬、佳音の三人は顔を見合わせた。
「看板って、お店の名前とか、書きますよね。ほら、美葉のとこだったら、食料品と日用雑貨の店 谷口商店って、書いてるでしょ?」
佳音は、谷口商店の壁を指さす。なるほど、と正人は頷く。
「では、家具工房、ですね。家具工房…。なんていう名前にしようかな。」
この言葉に、三人に加えて陽汰も顔を見合わせ、まじか、と呟いた。
「まさかの屋号を決めてないという落ち。」
錬が呟く。
「おっさん、まじ抜けてんな。」
健太の言葉に、正人は口をとがらせたが、言い返す言葉が見つからなかった。自分に計画性が欠けているという自覚はある。だが、知り合ったばかりの高校生に馬鹿にされる筋合いはない。そんな正人の姿を見てか、佳音が両手をパン、と叩いた。
「じゃあさ、一緒に考えてあげようよ。」
おー、と健太と錬が目を輝かせる。
「レッチリとか、ボンジョビとか、エアロとかどう?」
「なんで人の名前つけんの。それも昔のロックスター。」
健太と錬の掛け合いを聞き流し、佳音がいう。
「確かに、自分の名前をダイレクトにつけるのもいいですよね。お名前、なんて言うんですか?」
あ、と正人は居住まいを正し、深々と頭を下げる。
「木全正人と申します。」
「家具工房きまた。家具工房まさと。」
佳音は首をかしげる。
「きまたまさとって、どんな字?」
「木に全部の全、正しい人と書いて正人です。」
「正しい人…。なんか正しくねー。」
佳音と正人の会話に、健太が割って入る。正人はむっとした表情を健太に向ける。
「でも、名前に入ってる木を使うのって、家具らしくて良くない?」
佳音は二人の間に割って入る。うんうん、と錬が頷く。ふーん、と健太も中に目を泳がせてうなる。
しばらく、それぞれが正人の名前をぼそぼそと呟きながら考えを巡らせる。クァークァーと鳴きながら、白鳥のつがいが空を飛んでいく。その先にはまだ真っ白な稜線が連なっている。
「きっと…。」
ふと、健太が呟いた。
「きむらまさとの頭としっぽをつなげて、きっとってのはどう?」
今度は自慢げに大きな声で言う。
「キットって、手作りキットとかのキット?」
佳音は首をかしげる。健太は大きく首を振った。
「きっと、なになにだろう、のきっと。明るい未来を想像する言葉じゃね?」
ほう、と錬と佳音は目を合わせた。
「きっと俺らは有名なミュージシャンになって、女にもてまくり!みたいな。」
健太がにっと笑う。
「きっと、金持ちになる、とか。」
「きっと、看護学校に受かる、とか。」
錬と佳音が首をかしげ、考えながら言う。そして、三人は陽汰に目を向けた。陽汰は三人の視線をうけ、面倒くさそうな顔をしたが、しばらくして答えた。
「カレー。」
健太が大笑いする。
「きっと今晩はカレーだ。なるほど!明るい未来だわ。」
錬も佳音も、声を出して笑う。
「お言葉ですが…。」
正人はおずおずと手を挙げて言う。
「きっと、は確かにそうだろうと予測・期待する言葉です。ですから、必ずしも明るい未来ばかりを想像するわけではないのでは。」
えー、と健太は不服そうな声を上げる。
「じゃあ、正人さんはきっとの後、何を思い浮かべんの?」
錬が尋ねた。正人は眉をしかめて、考え込む。ふと、頬に当たる風に湿り気を感じ、正人は顔を上げた。
「明日はきっと、雨ですね。」
例題を思いついてほっとしたが、四人の不服そうな視線が正人に注がれる。正人は慌てて首を振った。
「雨も、いいですよ。雨降らないと、作物は育たないし、水不足になる。」
そう言いつつ、ここは明らかに希望を持った応えを出すべきだったと思った。
「せっかく、一生懸命考えてくださったのに、すいません。」
頭を掻きながら、頭を下げる。陽汰を除く三人は顔を見合わせ、吹き出した。
「確かに変な人だな。」
健太は笑いながら言って、行こうぜ、と錬に声をかけた。
「お邪魔してすいませんでした。」
佳音は正人にぺこりと頭を下げ、自転車にまたがる。陽汰は、チラリと正人を見てからそっぽを向いて、同じく自転車にまたがった。
「あ、美葉に手、出すなよ、おっさん。」
健太がそう言って、軽く手を挙げて自転車を漕ぎ出した。
美葉は体育館の入り口をそっと開けた。卒業してから初めてのことだ。クリーム色のペンキが塗られた引き戸は、驚くほどすんなりと開いた。ちょっとした靴脱ぎスペースに空の靴箱が並んでいる。ずいぶん小さく感じる。記憶の中の靴箱は、とても背が高く、最上段は背伸びをしても手が届かないものだったはず。でも今は、ちょっとかかとをあげれば、手が届く。
その奥に、もう一つ扉がある。透明なガラスがはめられたアルミの開き戸だった。美葉は一瞬迷ったが、意を決して扉を開けた。こちらの扉は堅く、ガタガタと音を立てながら開いた。
真正面に、葡萄色の緞帳が見える。左右に並んだガラス窓から斜陽が差し込んでいる。茜色の光を背に、本来そこにあるはずのないものを見つけ、美葉は驚きの声を上げた。
キッチンだ。
夕焼け空が覗く窓を背に、木製のキッチンがあった。
体育館の床と同じ柔らかな色調のフロントパネル。吸い込まれるように近づくと、縦に入る美しい木目が目に入った。
ワークトップも、同じ木材が使われている。横に流れる柔らかな木目。つややかな表面は優しく光を反射している。思わず手を触れる。その滑らかな感触に息をのむ。美しい天板に、古びたホーローのシンクがはめ込まれている。すっとまっすぐ伸びた蛇口は、コの字型に二つに分かれている。
「理科の実験室のだ。」
あまりにも不釣り合いで笑ってしまう。所々はげたホーローに触れる。シンク横のワークスペースを挟み、二口のガスコンロが目に入る。かなり年季が入っているもので、ガスホースにはつながれていない。家庭科室のコンロだと、一目で分かった。
「美葉さん。」
不意に名を呼ばれ、はっと顔を上げると、正人がはにかんだ表情を浮かべて立っていた。
美葉は正人の顔をまじまじと見た。
「これ、正人さんが作ったの?」
正人は恥ずかしそうに頷く。もう一度、天板に触れる。こんなに滑らかな木を触ったことが無いと思った。素人目にも素晴しい加工だと分かる。これは家具だ。キッチンは、家具だったのか。
そこで、ふと疑問が浮んだ。
「木って、水に濡れると腐ってしまうんじゃないの?」
美葉が幼い頃、和夫は庭に紫陽花畑を眺められるようベンチを作ったが、雪解け水がしみることもあり、数年で壊れてしまったのを思い出した。
正人は、静かに首を横に振った。
「木が、水に弱いというのは、誤解なんですよ。」
「誤解?」
そう、と正人は頷く。
「サンドペーパーで削ると、木の表面が傷だらけになってそこから水がしみこんで痛みの原因になります。だから、僕は鉋を使います。鉋で削った木の表面には傷がないので、水がしみこんでいきません。」
「鉋って、大工さんがよく使う奴?」
美葉の問いに、正人はふふ、と微笑んだ。
「最近は、大工さんもあまり鉋は使わないのではないですかね。鉋仕上げはものすごくデリケートで難しい仕事です。時間も手間もかかります。今は、木の加工技術が発達しているので、機械を通せば五分でこの天板が出来てしまいます。でも、それでは表面が傷だらけです。水がしみこまないようにしようとしたら、表面をニスで覆わなければならなくなります。」
美葉は天板をなでた。すべすべとした肌触りが心地よい。その美しい光沢を見つめながら問う。
「ニスを塗っていないの?」
「オイルフィニッシュです。」
誇らしげに、正人が胸を張る。
「食品を扱う場所ですから、安全なもので塗装するのが当たり前だと思います。口に入れても害のない亜麻のオイルを塗り込んで仕上げています。」
へぇ、と美葉は声を上げた。当別町のこの地域は、日本一の亜麻の生産地なのだ。初夏になると、健太の家の畑にも可憐な亜麻の小花が咲き乱れる。
「僕のおじいさんは旭川で家具工場を営んでいます。おじいさんが当別町の亜麻のオイルで家具の塗料を作り、使用しています。だから、町長さんと仲良くて、今回僕が工房を開くにあたり廃校になった小学校を使わせていただけることになったんです。」
なるほど、と美葉は息をついた。このおかしな隣人について、やっとまともな背景が見え、少し安心したのだ。でも、と美葉は思った。
「でも、何もわざわざ、木でキッチンを作る必要ってある?水に強くなるように、時間をかけて木を加工するんでしょう?」
美葉の問いに、ふーん、と正人は考え込んだ。意地悪なことを言ったな、と美葉は後悔する。時間や手間がかかったとしても、これほど美しいキッチンを作ることが出来るなら、それでいいと思うのに。
意地悪になった、と思う。自分は意地悪で心の冷たい人間になったと思う。友達と話し、笑うことも出来なくなってしまった。今は、それを無駄な時間だと思ってしまう。
「あ!」
突然正人は名案を思いついたという顔でぽんと手を打ち鳴らした。
「美葉さん、この引き出し、開けてみてください。」
調味料入れらしい引き出しを指さす。
「ここ?」
「はい。」
正人はうれしそうに満面の笑みを浮かべている。怪しい。何か企んでいるのが大きく顔に書いてある。
美葉は少しためらい、でも、どうせたいしたものではないだろうと冷たく思い、引き出しを開けた。
引き出しから、勢いよく何かが飛び出してくる。美葉は大きな悲鳴を上げた。
出てきたのは、拳ほどの大きさの円盤だった。赤く塗られ、舌を出したおどけた顔が描かれている。その顔はバネで引き出しの底とつながっている。
びっくり箱だ。
「な!?」
美葉は言葉を失い、口をパクパクさせた。正人は、声を上げて笑っている。
「驚かせてすいません。これはね、フルオーダーキッチンにはこれだけ自由度があると伝えるために作った引き出しです。普通のオーダーキッチンは、決まったパーツから、お客さんの気に入ったパーツを組み合わせて作ります。でも、僕が作るキッチンは、大きさも、形も、どこにどんな機能を持たせるのかも全て自由です。例えば、料理の最中に子供がぐずって困るというのであれば、この引き出しが役に立ちます。」
それに、と正人はまだ驚いた顔のままの美葉を振り返り、微笑んだ。
「キッチンは、幸せを作る場所じゃないですか。」
「幸せを作る?」
美葉は驚いた顔に疑問の表情を乗せて問う。
「ご飯を食べているときは、みんな幸せです。キッチンはみんなの幸せな時間を作る場所だと思うんです。一番幸せに近い家具、そう、思うんです。」
正人はふと、遠くを見るようなまなざしを窓の向こうに向ける。
「人を幸せにする家具を作る。その課題を達成するのが、今の祖父との約束なんです。」
「旭川の、家具工場のおじいさん?」
「そう。おじいさんは僕が一人前の家具職人になるために、段階を追って課題を与えてくれました。その課題を必ず生きて達成するというのが、おじいさんと僕との約束です。」
「生きて達成する?」
えらく大げさだと、美葉は思った。正人はその疑問に困ったような笑顔を返し、少し黙った。そして、言葉を探すようにゆっくりと続けた。
「人の幸せにする家具。とても、難しいです。すごく、悩みました。考えて、考えて。行き着いたのは、『フルオーダーでなければその課題は達成できない』という結論でした。人の幸せは、一人一人違うし、変わっていくものだから、既製品やセミオーダーでは、作ることはかなわないと思うんです。それで、家具工房を始めることになりました。」
言葉は次第に熱を帯びていく。だが、熱を帯びるほど美葉の心はしらけていった。
「手作り家具の工房を始めたのは、おじいさんとの約束を果たすため?」
「ええ、その通りです。」
美葉の冷たい視線に気づかないのか、正人は無邪気で頷く。その正人が、おもむろに走り出した。美葉があっけにとられていると、舞台の前で立ち止まる。舞台の前には卓球台が広げられている。正人はその上から大きな板を持ち上げ、重たそうに担ぎながら、美葉の前に戻ってきた。
「そういえば今日、美葉さんにもらったアドバイスをもとに、看板を作ろうと思いました。」
二メートルほどの一枚板を正人は地面に立てた。重たいのか、体で倒れないように支えている。
「ところが、いざとなると、看板には何を書いたらいいのか見当もつかず、悩んでしまいました。そしたら、美葉さんのお友達が来て、沢山アドバイスをくれたんですよ。」
満面の笑みを浮かべているが、この板を支えているのは大変そうである。
「分かった。とにかく、どこかに置いてから説明して。」
美葉は一枚板に手を置いた。厚みが5~6㎝ほどもあり、少し支えただけで重量を感じた。さすがに正人も重たいと感じていたようで、そうします、といって持ち上げ、もと合った卓球台まで運んだ。美葉も板の後ろを持ち、運ぶのを手伝う。宙に浮いた板は想像以上に重たい。
「美葉さん、気をつけてくださいね。」
正人の声に目を上げると、正人の二の腕が目に入った。細くて頼りない体つきだと思っていたが、くっきりと筋肉が浮き上がっていることに驚き、なぜか頬が熱くなった。
どっこいしょ、とかけ声とともにもとあった卓球台に板をのせた。板の上には、メモ帳と短い鉛筆が置いてある。メモ帳には、「木全正人」「木人」と走り書きがあった。
「お友達は、優しい方ばかりですね。看板には、『家具工房』と前置きを書いた上で、工房の名前を書いたらいいと教えてくれました。名前も、一緒に考えてくれたんですよ。」
正人はニコニコと笑顔で言う。美葉は一瞬堅く目を閉じた。もう、あまり何があっても驚かないと思っていたが。
「この家具工房って、一応すでに営業しているんだよね。」
「ええ、もちろん。いつでもお客さんが来ればオーダーメイドの家具をお作りできますよ。」
胸を張って正人が答える。
「でも、工房の名前は決まってないんだね。」
「名前つけるの、忘れてました。」
正人はポリポリと頭を掻くが、相変わらず邪気のない笑みを浮かべている。美葉は大きなため息をついた。欠落している。と美葉は思う。この男は何か大切なものが欠落している。
「名前、決まったの?」
だんだんと頭が痛くなり、あまり深く考えないでおこうと美葉は思った。
「それが、まだなんですよ。あの、体の大きな男の子。彼が、木全正人の頭とお尻をくっつけて『きっと』という名前がいいのではと言ってくれたんですけど…。」
困ったように、首をかしげ、眉尻を下げる。
「なんだか、既製品のキットを連想するので、フルオーダーの家具工房にはそぐわないのではないかと思いまして。」
そう言ってから、ふと真面目な顔美葉に向けた。
「きっと、という言葉の次に、美葉さんは何を思い浮かべますか?」
「きっと?」
美葉は正人の言葉の意味を飲み込めずにいた。
「はい、きっと、なになにだろう、のきっと、です。」
きっと。
美葉は考えた。きっと。未来を想定した言葉をつなぐことは分かる。でも、不思議なくらい何も思い浮かばない。先のこと、これから起こること。
あ、と美葉は声を上げた。
「きっと、こうしている間にお味噌汁冷めちゃってる。温め直す時間がもったいない。」
正人は美葉の言葉を聞き、顔から笑みを消した。自分に向けられた正人の視線が、内面を探ろうとしていると察し、美葉は一歩後ずさった。
「お父さんが、晩ご飯に正人さんを呼んだらって言うから、呼びに来たんだった。」
正人から顔を背け、義務的な口調で正人に伝える。
「親父さんが?」
正人は明らかにうれしそうな笑顔を浮かべる。
「親父さん?」
聞き慣れない呼び方に美葉は寒気を覚え、顔をしかめる。
「はい。朝『お父さん』と呼ぶのはいけないと言われました。それで、どう読んだらいいのかと悩みまして。おじいさんが、『髭親父』と呼ばれていたのを思い出し、では、お父さんは髭がないので『親父』と呼んでみたんです。そしたら、ものすごく怒られてしまいました。呼び捨てにしたのが、良くなかったみたいで、『親父さん』と呼んでみたら、まぁ、それならいいとお許しをいただきました。」
正人の口調から、男二人の滑稽なやりとりを想像し、美葉の口元がほんの少し綻んだ。その微かな綻びを受け止めるように、正人も微笑みを返す。美葉ははっと我に返り、正人に背を向けた。
「そういうことだから、晩ご飯、食べちゃって。食べちゃわないと、片付けが出来ないんだから。」
早口にいい、一歩歩いたところで、ふとメモの「木人」という字が頭に浮んだ。
「こびと…。」
名案だと思う。振り返り、熱を含んだ声で正人に伝えた。
「木に人と書いて『きっと』じゃなく『こびと』って読んだらいいと思う。『こびと』を別の国の言葉で言い換えてもいいかもね。」
「なるほど!」
正人が答える間もなく、美葉はスマホを取り出し、こびとという言葉のバリエーションを検索した。すぐに、様々な言語での「こびと」という表現が見つかる。正人もスマホの画面をのぞき込む。
「フランス語では男と女で違うんだね。イタリア語もだ。男が『nano』・・・、小さいものを連想しちゃうね。」
「そうですね。スコットランド語の『ドロイヒ』・・・。響は格好いいですけど、堅い感じがする。」
画面をスクロールしていく。二人で画面をのぞき込み、しばらくして二人同時にあ、と声を上げた。
「ジュジュ。」
声が合わさる。
「アルバニア語だって。アルバニア。どこの国だろう。」
「東ヨーロッパの国ですよ。バルカン半島南西部に位置する、アルバニア共和国です。ジュジュ、いいですね。樹を連想するので、家具屋にぴったりです。」
「そうだね。決まり?」
美葉は正人を振り返る。あまりに近いところに、正人のすっと通った鼻があった。至近距離で視線が合い、二人同時に後方へ飛び退く。美葉の頬は熱くほてっていたが、正人の白い肌も首まで赤く染まっていた。
その夜、美葉の部屋の窓から体育館の明かりが見えていた。美葉はいつもよりも遅くまで机に向かっていたが、眠りにつくために明かりを消す時間になってもオレンジ色の光は消えなかった。
翌朝、美葉が店の掃き掃除のために外に出ると、体育館の入り口に大きな一枚板が立てかけてあるのが見えた。箒を持ったまま、美葉はその板の前に歩いて行く。
「家具工房 樹々」
丁寧に彫られた文字に添えられるように、とんがり帽子を被った小人が彫られている。小人は四つ葉のクローバーを手渡そうとするように捧げ持っていた。
看板に朝露が降り、朝の光にキラキラと光っていた。
六畳一間の宿直室。敷きっぱなしのせんべい布団から体を起こす。部屋の片隅には一口のガスコンロと小さなシンクだけの簡素なキッチンがある。そのシンクで正人は顔を洗い、着替えようとしていつもの紺色の作業着がないことに気づいた。昨日、美葉が洗濯してくれたのだ。迷彩柄の大きなリュックサックを探る。この町に来るとき、全ての荷物はこの中に入れてきた。着替えは、下着と靴下が二組ずつ。そして、カーキ色の作業着。祖父からもらい、まだタグがついたままの新品だ。
「なんかもったいない気がする。」
そうつぶやき、タグを鋏で切って袖を通す。
らくだ色のスエットの上下とブリーフを畳む。洗って返すべきだろう。でも、水洗いしか出来ない。洗濯機もなければ、洗濯用の洗剤もない。
そこで、はたと気づく。
昨日世話になった美葉の家は、生活必需品を売る店だと言った。これまで、どこに店があるのか分からず何も手に入れられずに困っていた。なんと目の前にあったとは。もちろん、収入がないので散財するわけにはいかないが、数百円の洗剤を買う位の金は持っている。
正人は財布から五百円玉を取り出し、握りしめて転がるように階段を駆け下り、体育館を飛び出した。
ちょうど、店の入り口から美葉が外に出てきたところだった。
腰まであるまっすぐな黒髪を無造作に一つに束ねている。
「美葉さん!」
正人は自転車に向かって歩き出す美葉の背中に声をかけた。
美葉の存在は目を引く。大輪の芍薬の花が咲いているようだと思う。振り返って小首をかしげる姿は、そよ風に薄紅色の花が揺れているようだ。
「美葉さん!おはようございます!昨日はどうもありがとうございました!」
美葉の前までたどり着くと、正人は深々と頭を下げた。
「どういたしまして。」
ぶっきらぼうは美葉の声が頭の上に聞こえる。美葉の足先が自転車に向かって一歩踏み出す。
「あの!洗剤ください!」
慌てて正人は声をかけた。
「はぁ?」
美葉は唇を半開きにし、正人の顔を凝視する。
「昨日お借りした洋服、手洗いですが洗ってお返しします。」
美葉ははぁ、と息を吐いた。
「お風呂場の横に洗濯機があったでしょ。そこに入れておいて。もうすぐお父さんが起きてくるから。よかったら朝食も一緒にどうぞ。お弁当も、作ってあるから。」
早口でそう言いながら、美葉は自転車のかごにリュックを入れる。
「お弁当まで!?」
正人は驚いて両手を口に当てた。
「二人分も三人分も一緒だから。」
自転車をこぎ出そうとして、ふと動きを止める。
「食器、洗ってくれるのはうれしいけど、伏せておいてくれたらいいので。違うところにしまわれちゃうと、探す時間がもったいないから。」
早口でそう言うと、今度こそ自転車を漕いでいってしまった。
正人が味噌汁を温めていると、寝ぼけ眼の和夫が食卓に顔を出した。正人の姿を見て、うわぁ、と驚きの声を上げる。
「なんで朝から君がここにいるんだ?」
もっともだ、と思いつつ、正人は深々と頭を下げた。
「おはようございます。昨日は大変お世話になり、ありがとうございました。今朝、美葉さんに朝食を食べて良いと許可をいただきまして、今、お父さんの分も一緒にご用意させていただいております。」
はぁ、と力ない返事をし、和夫は食卓に着いた。
炊飯器を開けると、炊きたての米が湯気を上げる。ご飯をよそい、味噌汁とともに和夫の前に並べる。食卓には、卵焼きと浅漬け、常備菜らしいひじきの煮物が並んである。どれも、箸がつけられた形跡がない。
「美葉さんは、朝ご飯食べなかったのですかね?」
正人は小首をかしげる。
まだ暗い時間から、店の前で掃き掃除をしたり、入り口のガラス戸を拭いたりしている姿を何度も見た。まさか高校生だとは思っていなかった。
「いただきます。」
正人が両手を合わせる。和夫はすでに味噌汁をすすっている。
「美葉さん、とても働き者ですね。」
正人は卵焼きを頬張った。卵の甘さとだしの香りが口いっぱいに広がる。
「料理上手で、美人で、素敵な娘さんですね。」
和夫は返事をせず、浅漬けを口に放り込んだ。ぽりぽりと胡瓜をかみしめる音がする。正人は味噌汁をすすった。豆腐とわかめと白ネギの味噌汁。鰹のだしが効いている。
「料理が、母さんの味に似てくる。」
胡瓜を飲み込んだ後、和夫が呟いた。
「卵焼きの味も、味噌汁の味も、母さんの作るのと大差ない。」
深いため息をつく。
「美葉は母さんがいた時と同じ日常を作ろうとする。店の事も、家の事も。料理の味も、献立も。まるで最初からいなかったみたいに、以前と同じ日常が毎日毎日やってくる。母親が死んで悲しむ様子もない。冷たくて、気ばっかり強い娘に育ってしまった。」
和夫はぽつり、ぽつりと呟いてから、味噌汁をすすった。
正人は何と応えて良いか分からず、視線をうろうろさせた。そして、八畳ほどの居間の片隅にある小さな仏壇を見つけた。正人は立ち上がり、引き寄せられるように仏壇のそばへ行き、正座をした。
仏壇の中で、美しい女性がこちらに微笑みかけている。三十代後半だろうか。美葉が大人になったら、このような女性になるのだろう。
「初めまして、美葉さんのお母さん。昨日はお嬢様に大変お世話になりました。ありがとうございました。」
正人は手を合わせ、小さく呟いて頭を下げた。
顔を上げ、両手を膝の上に置いてから、遺影の中の女性を改めて見つめる。何故か以前から知っている人のような親しみを感じる。今にも声をかけてくれそうな、優しい笑顔が、そこにある。
「奥さん、美人ですね。」
思わず正人は呟いた。少し間を置いて、ああ、と和夫の返事が聞こえた。
「ここらでは評判の美人で、優しくて、みんなの憧れだった。小学校六年の時、札幌から転校してきた。こんな片田舎に、都会から、こんなきれいな女の子がやってきたもんだから、大人も子供もみんな驚いたもんだ。当別の男子はみんな母さんを意識していた。俺は高嶺の花だと思って声一つかけることが出来なかった。まさか家に嫁に来ることになるとは、思ってもみなかった。」
和夫は、大きな息を吐き、呻くように言う。
「家に、嫁に来なければ。苦労をかけたから、こんなに早く…。」
和夫の言葉から、痛いような悲しみと苦しみが伝わってくる。この悲しみや苦しみを、自分も知っていると正人は思った。そして、少しは距離を置けるようになっていたと思っていたが、あまりにもリアルに蘇ってくる感覚にうろたえた。
膝の上の両手を、強く握る。拳に爪が食い込む。その拳に、ぽつり、ぽつりとしずくが落ちた。喉の奥が引きつるように苦しくなり、嗚咽が漏れる。涙が涙を呼ぶように、止まらなくなり、いつの間にか声を上げて泣いていた。
「な、なんであんたが泣く…?」
和夫の声に振り返ると、目を白黒させていた。
「だ、だって…。お父さん、奥さんをすごくすごく、愛しているのが…、分かって…。」
正人は拳で涙を拭う。
「大切が人が、いなくなると…、痛くて、苦しいじゃないですか…。」
拭っても、拭っても、涙と鼻水が止まらない。和夫はオロオロと立ち上がり、ティッシュペーパーの箱を正人の前に置いた。
正人を見下ろしながら、深い息を吐く。
「みんな、いい加減もう悲しむなと言う。でも、忘れたくないんだよ。少しでも忘れないようにしようとすると、悲しくなる。」
正人はティッシュペーパーを一枚取り出した。
「悲しい気持ちをそんな起用に出したり引っ込めたり、出来ないですよ。悲しいなら、悲しんでいて良いのではないでしょうか、お父さん。」
垂れてきた鼻水を拭い、思い切り鼻をかんだ。
頭の上で、和夫が小さく頷く気配がした。
「ありがとうよ…。」
呟きながら、ゴミ箱をティッシュペーパーの横に置く。
「でも、お父さんと呼ばれるのは…。抵抗がある。」
そう言って、自分も一枚ティッシュペーパーを取り、ちん、と鼻をかんだ。
暖かな日差しを背に受けながら、正人は体育館の玄関先に立っていた。
あちこちから、ポツポツと雪解け水が地面に落ちる音がしている。玄関先に、欅の一枚板を立てたり横にしたりしながら、ずっと長い間考え込んでいた。
「あー、こいつだ!」
風に乗って、誰かの叫ぶ声が聞こえた。間髪入れず自転車のブレーキ音が次々と背後に響いた。
高校の制服を着た男女が自転車に乗ったまま正人を眺めている。ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、正人を品定めしているようだ。背の高い二人の男子学生、ぽっちゃりとした女子高生、そして、女子高生よりも頭一つ小さな男子学生。背の小さな青年は、イヤホンをして正人に背を向けていた。
「俺らの小学校に越してきたの、あんた?」
健太が、体には小さな自転車から降りて、正人の前に立った。
「いえ、これは、町の小学校です。」
正人は真面目に答えた。
「当たり前だろ。でも、俺らの母校だ。」
挑発するように、健太が言う。その肩をまぁまぁ、と錬が叩く。
「いきなりそんなこと言ったら、喧嘩売ってるみたいじゃないの。やめなさいよ。」
佳音が、頬を膨らませていった。
「美葉から話を聞いて、興味を持ったんで。」
へへ、と錬が愛想笑いを浮かべながら言う。いきなりおかしな輩に絡まれて動揺していた正人は、美葉の名を聞いてほっと息をついた。
「なんだ、美葉さんのお友達?」
「そう、おれら五人、ションベンたれてた時から一緒。この小学校最後の卒業生だ。」
なぜか自慢するように胸を張って健太が言う。
「では、美葉さんの幼なじみさんなんですね。」
正人は背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「どうぞよろしくお願いいたします。」
あまり丁寧に頭を下げるので、つられて健太と錬と佳音も頭を下げる。陽汰だけが、イヤホンの音楽を聴きながらそっぽを向いている。健太と錬は顔を見合わせた。
「本当だ、なんか、変。」
ケタケタと笑い出す。
「変、って、美葉さんが僕のこと、そう言ったんですか。」
正人の問いに、二人は何度もうなずき、笑い声を大きくする。正人は傷つき、変か…。と呟いてうつむいた。
「でも、嫌な感じで話してたわけじゃないよ。」
慌てて、佳音が慰める。
「面白い、って意味の変だと思う。」
「面白い…。」
うつむいたまま、正人が呟く。
「久しぶりに美葉がすっごくしゃべってたから、かなり面白いと思ったんじゃね?いつも、参考書眺めながら弁当食って、そのまま昼休み中ずっと勉強してっからさ。」
錬もさすがに悪いと思ったのか、慰めるような口調で言う。
「そー、あいつ高校行ってから本当俺らとつるまなくなったよなー。」
頭の後ろに両手を組み合わせ、体をのけぞらせながら健太が言う。
「そりゃ、美葉は忙しいから。」
佳音が唇をとがらせる。
「そうですね。美葉さんは働き者で、忙しそうですね。」
正人が佳音の言葉に頷く。佳音は正人と目が合い、慌てて視線をそらした。その顔を見て、錬が、おや、という顔をした。
「で、おっさん、何してんの?」
健太が正人の顔を見下ろして言う。
「おっさん?」
正人はぶしつけな言葉にむっとした。
「だっておっさんじゃん。」
「失礼な、僕はまだ、二十二歳だ。おじさん扱いされたくないです。」
「二十代はおっさんだって。」
「君だってあっという間に二十代になりますよ!」
言い合う二人に、錬がまぁまぁ、と割って入る。
「実際、どんなことやってんのか、興味津々なわけ、俺ら。」
ヘラヘラとした口調で、錬が言う。正人は小首をかしげた。
「家具を作る仕事をしています。今は、美葉さんに看板を作るといいとアドバイスをいただき、どんな看板にしようか考えていたところです。看板って、何を書いたらいいものかと思って。」
健太と錬、佳音の三人は顔を見合わせた。
「看板って、お店の名前とか、書きますよね。ほら、美葉のとこだったら、食料品と日用雑貨の店 谷口商店って、書いてるでしょ?」
佳音は、谷口商店の壁を指さす。なるほど、と正人は頷く。
「では、家具工房、ですね。家具工房…。なんていう名前にしようかな。」
この言葉に、三人に加えて陽汰も顔を見合わせ、まじか、と呟いた。
「まさかの屋号を決めてないという落ち。」
錬が呟く。
「おっさん、まじ抜けてんな。」
健太の言葉に、正人は口をとがらせたが、言い返す言葉が見つからなかった。自分に計画性が欠けているという自覚はある。だが、知り合ったばかりの高校生に馬鹿にされる筋合いはない。そんな正人の姿を見てか、佳音が両手をパン、と叩いた。
「じゃあさ、一緒に考えてあげようよ。」
おー、と健太と錬が目を輝かせる。
「レッチリとか、ボンジョビとか、エアロとかどう?」
「なんで人の名前つけんの。それも昔のロックスター。」
健太と錬の掛け合いを聞き流し、佳音がいう。
「確かに、自分の名前をダイレクトにつけるのもいいですよね。お名前、なんて言うんですか?」
あ、と正人は居住まいを正し、深々と頭を下げる。
「木全正人と申します。」
「家具工房きまた。家具工房まさと。」
佳音は首をかしげる。
「きまたまさとって、どんな字?」
「木に全部の全、正しい人と書いて正人です。」
「正しい人…。なんか正しくねー。」
佳音と正人の会話に、健太が割って入る。正人はむっとした表情を健太に向ける。
「でも、名前に入ってる木を使うのって、家具らしくて良くない?」
佳音は二人の間に割って入る。うんうん、と錬が頷く。ふーん、と健太も中に目を泳がせてうなる。
しばらく、それぞれが正人の名前をぼそぼそと呟きながら考えを巡らせる。クァークァーと鳴きながら、白鳥のつがいが空を飛んでいく。その先にはまだ真っ白な稜線が連なっている。
「きっと…。」
ふと、健太が呟いた。
「きむらまさとの頭としっぽをつなげて、きっとってのはどう?」
今度は自慢げに大きな声で言う。
「キットって、手作りキットとかのキット?」
佳音は首をかしげる。健太は大きく首を振った。
「きっと、なになにだろう、のきっと。明るい未来を想像する言葉じゃね?」
ほう、と錬と佳音は目を合わせた。
「きっと俺らは有名なミュージシャンになって、女にもてまくり!みたいな。」
健太がにっと笑う。
「きっと、金持ちになる、とか。」
「きっと、看護学校に受かる、とか。」
錬と佳音が首をかしげ、考えながら言う。そして、三人は陽汰に目を向けた。陽汰は三人の視線をうけ、面倒くさそうな顔をしたが、しばらくして答えた。
「カレー。」
健太が大笑いする。
「きっと今晩はカレーだ。なるほど!明るい未来だわ。」
錬も佳音も、声を出して笑う。
「お言葉ですが…。」
正人はおずおずと手を挙げて言う。
「きっと、は確かにそうだろうと予測・期待する言葉です。ですから、必ずしも明るい未来ばかりを想像するわけではないのでは。」
えー、と健太は不服そうな声を上げる。
「じゃあ、正人さんはきっとの後、何を思い浮かべんの?」
錬が尋ねた。正人は眉をしかめて、考え込む。ふと、頬に当たる風に湿り気を感じ、正人は顔を上げた。
「明日はきっと、雨ですね。」
例題を思いついてほっとしたが、四人の不服そうな視線が正人に注がれる。正人は慌てて首を振った。
「雨も、いいですよ。雨降らないと、作物は育たないし、水不足になる。」
そう言いつつ、ここは明らかに希望を持った応えを出すべきだったと思った。
「せっかく、一生懸命考えてくださったのに、すいません。」
頭を掻きながら、頭を下げる。陽汰を除く三人は顔を見合わせ、吹き出した。
「確かに変な人だな。」
健太は笑いながら言って、行こうぜ、と錬に声をかけた。
「お邪魔してすいませんでした。」
佳音は正人にぺこりと頭を下げ、自転車にまたがる。陽汰は、チラリと正人を見てからそっぽを向いて、同じく自転車にまたがった。
「あ、美葉に手、出すなよ、おっさん。」
健太がそう言って、軽く手を挙げて自転車を漕ぎ出した。
美葉は体育館の入り口をそっと開けた。卒業してから初めてのことだ。クリーム色のペンキが塗られた引き戸は、驚くほどすんなりと開いた。ちょっとした靴脱ぎスペースに空の靴箱が並んでいる。ずいぶん小さく感じる。記憶の中の靴箱は、とても背が高く、最上段は背伸びをしても手が届かないものだったはず。でも今は、ちょっとかかとをあげれば、手が届く。
その奥に、もう一つ扉がある。透明なガラスがはめられたアルミの開き戸だった。美葉は一瞬迷ったが、意を決して扉を開けた。こちらの扉は堅く、ガタガタと音を立てながら開いた。
真正面に、葡萄色の緞帳が見える。左右に並んだガラス窓から斜陽が差し込んでいる。茜色の光を背に、本来そこにあるはずのないものを見つけ、美葉は驚きの声を上げた。
キッチンだ。
夕焼け空が覗く窓を背に、木製のキッチンがあった。
体育館の床と同じ柔らかな色調のフロントパネル。吸い込まれるように近づくと、縦に入る美しい木目が目に入った。
ワークトップも、同じ木材が使われている。横に流れる柔らかな木目。つややかな表面は優しく光を反射している。思わず手を触れる。その滑らかな感触に息をのむ。美しい天板に、古びたホーローのシンクがはめ込まれている。すっとまっすぐ伸びた蛇口は、コの字型に二つに分かれている。
「理科の実験室のだ。」
あまりにも不釣り合いで笑ってしまう。所々はげたホーローに触れる。シンク横のワークスペースを挟み、二口のガスコンロが目に入る。かなり年季が入っているもので、ガスホースにはつながれていない。家庭科室のコンロだと、一目で分かった。
「美葉さん。」
不意に名を呼ばれ、はっと顔を上げると、正人がはにかんだ表情を浮かべて立っていた。
美葉は正人の顔をまじまじと見た。
「これ、正人さんが作ったの?」
正人は恥ずかしそうに頷く。もう一度、天板に触れる。こんなに滑らかな木を触ったことが無いと思った。素人目にも素晴しい加工だと分かる。これは家具だ。キッチンは、家具だったのか。
そこで、ふと疑問が浮んだ。
「木って、水に濡れると腐ってしまうんじゃないの?」
美葉が幼い頃、和夫は庭に紫陽花畑を眺められるようベンチを作ったが、雪解け水がしみることもあり、数年で壊れてしまったのを思い出した。
正人は、静かに首を横に振った。
「木が、水に弱いというのは、誤解なんですよ。」
「誤解?」
そう、と正人は頷く。
「サンドペーパーで削ると、木の表面が傷だらけになってそこから水がしみこんで痛みの原因になります。だから、僕は鉋を使います。鉋で削った木の表面には傷がないので、水がしみこんでいきません。」
「鉋って、大工さんがよく使う奴?」
美葉の問いに、正人はふふ、と微笑んだ。
「最近は、大工さんもあまり鉋は使わないのではないですかね。鉋仕上げはものすごくデリケートで難しい仕事です。時間も手間もかかります。今は、木の加工技術が発達しているので、機械を通せば五分でこの天板が出来てしまいます。でも、それでは表面が傷だらけです。水がしみこまないようにしようとしたら、表面をニスで覆わなければならなくなります。」
美葉は天板をなでた。すべすべとした肌触りが心地よい。その美しい光沢を見つめながら問う。
「ニスを塗っていないの?」
「オイルフィニッシュです。」
誇らしげに、正人が胸を張る。
「食品を扱う場所ですから、安全なもので塗装するのが当たり前だと思います。口に入れても害のない亜麻のオイルを塗り込んで仕上げています。」
へぇ、と美葉は声を上げた。当別町のこの地域は、日本一の亜麻の生産地なのだ。初夏になると、健太の家の畑にも可憐な亜麻の小花が咲き乱れる。
「僕のおじいさんは旭川で家具工場を営んでいます。おじいさんが当別町の亜麻のオイルで家具の塗料を作り、使用しています。だから、町長さんと仲良くて、今回僕が工房を開くにあたり廃校になった小学校を使わせていただけることになったんです。」
なるほど、と美葉は息をついた。このおかしな隣人について、やっとまともな背景が見え、少し安心したのだ。でも、と美葉は思った。
「でも、何もわざわざ、木でキッチンを作る必要ってある?水に強くなるように、時間をかけて木を加工するんでしょう?」
美葉の問いに、ふーん、と正人は考え込んだ。意地悪なことを言ったな、と美葉は後悔する。時間や手間がかかったとしても、これほど美しいキッチンを作ることが出来るなら、それでいいと思うのに。
意地悪になった、と思う。自分は意地悪で心の冷たい人間になったと思う。友達と話し、笑うことも出来なくなってしまった。今は、それを無駄な時間だと思ってしまう。
「あ!」
突然正人は名案を思いついたという顔でぽんと手を打ち鳴らした。
「美葉さん、この引き出し、開けてみてください。」
調味料入れらしい引き出しを指さす。
「ここ?」
「はい。」
正人はうれしそうに満面の笑みを浮かべている。怪しい。何か企んでいるのが大きく顔に書いてある。
美葉は少しためらい、でも、どうせたいしたものではないだろうと冷たく思い、引き出しを開けた。
引き出しから、勢いよく何かが飛び出してくる。美葉は大きな悲鳴を上げた。
出てきたのは、拳ほどの大きさの円盤だった。赤く塗られ、舌を出したおどけた顔が描かれている。その顔はバネで引き出しの底とつながっている。
びっくり箱だ。
「な!?」
美葉は言葉を失い、口をパクパクさせた。正人は、声を上げて笑っている。
「驚かせてすいません。これはね、フルオーダーキッチンにはこれだけ自由度があると伝えるために作った引き出しです。普通のオーダーキッチンは、決まったパーツから、お客さんの気に入ったパーツを組み合わせて作ります。でも、僕が作るキッチンは、大きさも、形も、どこにどんな機能を持たせるのかも全て自由です。例えば、料理の最中に子供がぐずって困るというのであれば、この引き出しが役に立ちます。」
それに、と正人はまだ驚いた顔のままの美葉を振り返り、微笑んだ。
「キッチンは、幸せを作る場所じゃないですか。」
「幸せを作る?」
美葉は驚いた顔に疑問の表情を乗せて問う。
「ご飯を食べているときは、みんな幸せです。キッチンはみんなの幸せな時間を作る場所だと思うんです。一番幸せに近い家具、そう、思うんです。」
正人はふと、遠くを見るようなまなざしを窓の向こうに向ける。
「人を幸せにする家具を作る。その課題を達成するのが、今の祖父との約束なんです。」
「旭川の、家具工場のおじいさん?」
「そう。おじいさんは僕が一人前の家具職人になるために、段階を追って課題を与えてくれました。その課題を必ず生きて達成するというのが、おじいさんと僕との約束です。」
「生きて達成する?」
えらく大げさだと、美葉は思った。正人はその疑問に困ったような笑顔を返し、少し黙った。そして、言葉を探すようにゆっくりと続けた。
「人の幸せにする家具。とても、難しいです。すごく、悩みました。考えて、考えて。行き着いたのは、『フルオーダーでなければその課題は達成できない』という結論でした。人の幸せは、一人一人違うし、変わっていくものだから、既製品やセミオーダーでは、作ることはかなわないと思うんです。それで、家具工房を始めることになりました。」
言葉は次第に熱を帯びていく。だが、熱を帯びるほど美葉の心はしらけていった。
「手作り家具の工房を始めたのは、おじいさんとの約束を果たすため?」
「ええ、その通りです。」
美葉の冷たい視線に気づかないのか、正人は無邪気で頷く。その正人が、おもむろに走り出した。美葉があっけにとられていると、舞台の前で立ち止まる。舞台の前には卓球台が広げられている。正人はその上から大きな板を持ち上げ、重たそうに担ぎながら、美葉の前に戻ってきた。
「そういえば今日、美葉さんにもらったアドバイスをもとに、看板を作ろうと思いました。」
二メートルほどの一枚板を正人は地面に立てた。重たいのか、体で倒れないように支えている。
「ところが、いざとなると、看板には何を書いたらいいのか見当もつかず、悩んでしまいました。そしたら、美葉さんのお友達が来て、沢山アドバイスをくれたんですよ。」
満面の笑みを浮かべているが、この板を支えているのは大変そうである。
「分かった。とにかく、どこかに置いてから説明して。」
美葉は一枚板に手を置いた。厚みが5~6㎝ほどもあり、少し支えただけで重量を感じた。さすがに正人も重たいと感じていたようで、そうします、といって持ち上げ、もと合った卓球台まで運んだ。美葉も板の後ろを持ち、運ぶのを手伝う。宙に浮いた板は想像以上に重たい。
「美葉さん、気をつけてくださいね。」
正人の声に目を上げると、正人の二の腕が目に入った。細くて頼りない体つきだと思っていたが、くっきりと筋肉が浮き上がっていることに驚き、なぜか頬が熱くなった。
どっこいしょ、とかけ声とともにもとあった卓球台に板をのせた。板の上には、メモ帳と短い鉛筆が置いてある。メモ帳には、「木全正人」「木人」と走り書きがあった。
「お友達は、優しい方ばかりですね。看板には、『家具工房』と前置きを書いた上で、工房の名前を書いたらいいと教えてくれました。名前も、一緒に考えてくれたんですよ。」
正人はニコニコと笑顔で言う。美葉は一瞬堅く目を閉じた。もう、あまり何があっても驚かないと思っていたが。
「この家具工房って、一応すでに営業しているんだよね。」
「ええ、もちろん。いつでもお客さんが来ればオーダーメイドの家具をお作りできますよ。」
胸を張って正人が答える。
「でも、工房の名前は決まってないんだね。」
「名前つけるの、忘れてました。」
正人はポリポリと頭を掻くが、相変わらず邪気のない笑みを浮かべている。美葉は大きなため息をついた。欠落している。と美葉は思う。この男は何か大切なものが欠落している。
「名前、決まったの?」
だんだんと頭が痛くなり、あまり深く考えないでおこうと美葉は思った。
「それが、まだなんですよ。あの、体の大きな男の子。彼が、木全正人の頭とお尻をくっつけて『きっと』という名前がいいのではと言ってくれたんですけど…。」
困ったように、首をかしげ、眉尻を下げる。
「なんだか、既製品のキットを連想するので、フルオーダーの家具工房にはそぐわないのではないかと思いまして。」
そう言ってから、ふと真面目な顔美葉に向けた。
「きっと、という言葉の次に、美葉さんは何を思い浮かべますか?」
「きっと?」
美葉は正人の言葉の意味を飲み込めずにいた。
「はい、きっと、なになにだろう、のきっと、です。」
きっと。
美葉は考えた。きっと。未来を想定した言葉をつなぐことは分かる。でも、不思議なくらい何も思い浮かばない。先のこと、これから起こること。
あ、と美葉は声を上げた。
「きっと、こうしている間にお味噌汁冷めちゃってる。温め直す時間がもったいない。」
正人は美葉の言葉を聞き、顔から笑みを消した。自分に向けられた正人の視線が、内面を探ろうとしていると察し、美葉は一歩後ずさった。
「お父さんが、晩ご飯に正人さんを呼んだらって言うから、呼びに来たんだった。」
正人から顔を背け、義務的な口調で正人に伝える。
「親父さんが?」
正人は明らかにうれしそうな笑顔を浮かべる。
「親父さん?」
聞き慣れない呼び方に美葉は寒気を覚え、顔をしかめる。
「はい。朝『お父さん』と呼ぶのはいけないと言われました。それで、どう読んだらいいのかと悩みまして。おじいさんが、『髭親父』と呼ばれていたのを思い出し、では、お父さんは髭がないので『親父』と呼んでみたんです。そしたら、ものすごく怒られてしまいました。呼び捨てにしたのが、良くなかったみたいで、『親父さん』と呼んでみたら、まぁ、それならいいとお許しをいただきました。」
正人の口調から、男二人の滑稽なやりとりを想像し、美葉の口元がほんの少し綻んだ。その微かな綻びを受け止めるように、正人も微笑みを返す。美葉ははっと我に返り、正人に背を向けた。
「そういうことだから、晩ご飯、食べちゃって。食べちゃわないと、片付けが出来ないんだから。」
早口にいい、一歩歩いたところで、ふとメモの「木人」という字が頭に浮んだ。
「こびと…。」
名案だと思う。振り返り、熱を含んだ声で正人に伝えた。
「木に人と書いて『きっと』じゃなく『こびと』って読んだらいいと思う。『こびと』を別の国の言葉で言い換えてもいいかもね。」
「なるほど!」
正人が答える間もなく、美葉はスマホを取り出し、こびとという言葉のバリエーションを検索した。すぐに、様々な言語での「こびと」という表現が見つかる。正人もスマホの画面をのぞき込む。
「フランス語では男と女で違うんだね。イタリア語もだ。男が『nano』・・・、小さいものを連想しちゃうね。」
「そうですね。スコットランド語の『ドロイヒ』・・・。響は格好いいですけど、堅い感じがする。」
画面をスクロールしていく。二人で画面をのぞき込み、しばらくして二人同時にあ、と声を上げた。
「ジュジュ。」
声が合わさる。
「アルバニア語だって。アルバニア。どこの国だろう。」
「東ヨーロッパの国ですよ。バルカン半島南西部に位置する、アルバニア共和国です。ジュジュ、いいですね。樹を連想するので、家具屋にぴったりです。」
「そうだね。決まり?」
美葉は正人を振り返る。あまりに近いところに、正人のすっと通った鼻があった。至近距離で視線が合い、二人同時に後方へ飛び退く。美葉の頬は熱くほてっていたが、正人の白い肌も首まで赤く染まっていた。
その夜、美葉の部屋の窓から体育館の明かりが見えていた。美葉はいつもよりも遅くまで机に向かっていたが、眠りにつくために明かりを消す時間になってもオレンジ色の光は消えなかった。
翌朝、美葉が店の掃き掃除のために外に出ると、体育館の入り口に大きな一枚板が立てかけてあるのが見えた。箒を持ったまま、美葉はその板の前に歩いて行く。
「家具工房 樹々」
丁寧に彫られた文字に添えられるように、とんがり帽子を被った小人が彫られている。小人は四つ葉のクローバーを手渡そうとするように捧げ持っていた。
看板に朝露が降り、朝の光にキラキラと光っていた。