あの日溺れた海は、

「君は…司くん、だったかな。初めましてだね。」
 
 
「初めまして、息子の司です。父から幾度かお話をお聞きしたことはあり、一度お会いしたかったのですが…実はこの場で言うのも何なのですが、娘さん…華さんの副担任でもありまして…。」
 
 
そう淡々と述べる先生の言葉に、驚きを隠せないと言う顔でお父さんは私と先生の顔を交互に見た後、「こんなことがあるのか」と呟いた。
 
 
尚子さんも「あら」と小さく声をあげると「いつもお世話になっております…」と頭を下げた。わたしはお世話されてる側ですけど、と心の中で突っ込んで何とか平静を保った。
 
 
「でも、なぜ僕の名前を…?」
 
 
 
 先生はふと思い出したように不思議そうな顔をしてそう父に聞いた。
 
 
「よく、お父さんから司くんの話を聞いていたからね。作家を辞められた後もたまに飲みに行ってたんだ。司くんが可愛くて仕方がないと…。」
 
 
 お父さんは穏やかな笑顔を浮かべながらそう言った。先生の目が少し見開かれた。驚いているらしい。
 
 
「君が高校生を卒業したときくらいかな、『俺のコネで、井上さんのとこから息子の本を出してくれないか』と本気で頼まれたことがあったんだ。…残念ながら出版業界も不景気だったし、僕も男性向けファッション雑誌の編集に異動になってしまっていて叶わなかったことだけど…。」
 
 
 今度こそ先生は目を大きく見開いた。そうしたかと思えば目を伏せて苦しげな表情を浮かべた。
 
 
「ありがとう、ございます」
 
 
 微かに震えた声で先生はそう答えると、グッと何かを堪える様に唇を噛んだ。
 
 
ぎゅっと抱きしめてあげたかった。そんなことして何になるんだって、わたしがしてどうするんだって思うかもしれないけど、衝動的に強く思った。
 


 もわたしはただの生徒。そうすることさえ許されなくて、わたしも涙が出そうだった。
 

もっと触れたい、先生の心の奥にある感情に。学校では見せない、悲しい気持ちだったり、切ない気持ちに触れたい。
 
 
そう思って、でも今のこの突っ立って見つめてることしかできない現実に心が張り裂けそうだった。
 
 
 
 
 
 
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