あの日溺れた海は、
それなのに。


風は先ほどよりも落ち着き、春の午後の日差しがわたしの背中を暖かくして、執筆活動の邪魔をしてきた。
うつらうつら、と何度も顎を沈ませてははっと顔を上げ、頬をたたいて何度も眠気を吹き飛ばそうとしたが、ついにわたしは開き直って原稿用紙の上に突っ伏した。


だって誰も来ないし。
イタリアだかスペインだかどこか遠い国ではお昼寝をすることで労働効率を上げてるってどこかで聞いたことあるし。
…昨日もあまり眠れなかったし。


もう…いっか。


そうしてわたしは夢の世界へと誘われていった。



『…のうえ。』

目の前には青い海。わたしは砂浜の上。


海とわたしの間に立ちはだかる人のようなものがわたしの名前を呼んでいるようだった。

その顔も、どんな表情なのかも、誰なのかも影になっていてはっきりとは見えない。


『せ……と……』


夢の中のわたしはその人に必死に何かを叫んでいる。しかし波の音でその声も打ち消されて自分ですら何と言っているのかもわからなかった。

その人の形をした黒い影はわたしの名前を呼びながらどんどんわたしに近づいてくる。
あ、ダメだ。このままではいつもと同じ”悪夢”に飲み込まれる。



『いのうえ!』


< 4 / 361 >

この作品をシェア

pagetop