瑠璃色の街
第11話、世捨て人
「 さて、村さん。 繰り出すかね? 」
日焼けした赤ら顔から銀歯をむき出しにしながら、その男は、幸二に言った。
風呂上りの髪をタオルで拭きつつ、幸二が答える。
「 今日は、やめとくよ。 業務日報も書いてないし 」
男は言った。
「 そげなモン、明日、帰る時に、車の中で書けばよか。 今日は、楽しいトコに行くばい。 今夜が最後ぞ? 」
幸二は、笑いながら答えた。
「 ソッチの方も、遠慮しとくよ。 俺に構わず、楽しんで来てくれ 」
「 なんち、まあ… 固ブツじゃのう、村さんは 」
傍らにいた、ヒゲ面の男が言った。
「 村さんは、職長じゃきに。 オレらとは、責任っちゅうモンが違わい。 お前さんも、ちったあ~、村さんを見習わんか。 おお? 」
幸二が言った。
「 元来、俺は、ゲコでな。 あまり、酒も飲めん。 まあ、長期の出張工事も、明日が最後だ。 ハメを外し過ぎん程度に、楽しんで来てくれ 」
銀歯の男が言った。
「 ほじゃったら、出張ヘルスでも呼んでやろうか? たまには、女でも抱きたもんせ、村さん 」
ヒゲ面の男が言った。
「 アホか、お前。 飯場に女を呼ぶなんて、聞いたコトねえぞ? 」
「 じゃっどん、酒もダメ、女もダメじゃ… ワシだったら生きて行けんばい 」
「 おめえを基準に、物事、考えるんじゃねえよ。 村さんには、理性ってモンがあんだよ 」
「 辛い、理性よのお~… 」
作業員の男たちは、車で10分ほど行った所にある温泉街へ、ぞろぞろと出掛けて行った。
ここは、長野県の山間……
自治体が手掛ける治水事業の一環であるダム工事の建設現場だ。
幸二は、地元の工務店などから雇い入れた作業員たちと共に、約1年半、ここにいる。
ダム本体の躯体は、ほぼ出来上がり、最近は防水工事ではなく、もっぱら、水路などで発生した漏水の止水工事に従事していた。
その工事も、明日で終了だ。
空と山しかない、人里離れた現場……
最初、静かな環境を気に入っていた幸二だったが、そろそろ、人恋しくなって来ていた。
( 土工の連中も、躯体が出来た頃から段々といなくなって… 今は職員も、当初の半数以下だもんな。 事務所や飯場も寂しくなるワケだ )
幸二は、寝泊りしている飯場の2階へ上がると、日報をつけ始めた。
ふと、横の窓から駐車場を見ると、隣の事務所から、幸二のいる飯場の方へ歩いて来る人影が確認出来る。
工事長だ。
「 村さ~ん、いいかね~? お邪魔しても 」
幸二の方に手を振りながら、工事長は言った。
窓を開け、答える幸二。
「 工事長~ みんなと、飲みに行ってたんじゃないんですかぁ~? 」
やめてくれ、と言うようなゼスチャーを返す、工事長。
幸二は言った。
「 散らかってますが、どうぞ~ 」
「 やあ、済まんね、夜分に 」
ペットボトルに入った緑茶と、茶菓子を持って、工事長は来た。
「 実は、頼み事があってね…… 」
工事長は、有田と言う名前で、請け元JVの職員だった。 幸二と同じ、単身赴任である。歳は、50代前半。 大学時代に知り合った奥さんと、27歳の会社員の息子、24歳の、OLをしている娘さんを家族に持っている。
「 何でしょうか? 作業員たちが何か、粗相でもしましたか? 」
そう言う幸二に、有田は答えた。
「 いや、そんなコトじゃない。 …あ、菓子、食うかね? 」
有田が、おかきの袋を開けながら聞いた。
「 頂きます 」
おかきを1つ、口に入れながら、有田は言った。
「 実はね… ワシは、この現場の後、とある浄水場の建設現場に、所長として出向く事になってね 」
幸二も、おかきをつまみながら言った。
「 浄水場ですか。 補修で? それとも、改修ですか? 」
「 新規だよ。 規模は、かなりデカい 」
「 それは良かったじゃないですか。 しかも、所長さんで… おめでとうございます! 」
緑茶を、2つの紙コップに注ぎながら、有田は答えた。
「 有難う。 …実はね、そこの防水工事を、村さんのトコでやってもらいたいんだ。 今日、村さんトコの社長さんには、電話でお願いをしておいた。 ワシとしては、1年半、一緒にやって来た、村さんと組みたいんだよ。 気心が、知れてるからね 」
有り難い話しである。
社長としても、営業を掛けなくても、大型の仕事が受注出来たわけだ。 濡れ手に粟だった事だろう。
幸二は答えた。
「 それは、有難うございます。 社長も、喜んでいたでしょう? 」
「 まあね。 社長さんにも、村さんを職長として担当してくれるよう、頼んでおいたよ。 また1年ほど、ワシと一緒にやってくれるかね? 」
「 もちろんですよ、工場長! いや… 所長ですね 」
「 ははは。 ここにいる間は、工場長だよ 」
有田は、紙コップの緑茶を飲みながら言うと、続けた。
「 来週には、ここも、施主に引渡しだ。 事務所と飯場を解体撤去したら、ワシも所長と一緒に、ここを出る。 新しい現場は、来週末から入場する予定だ。 村さんも、施工式には出席してくれよ? 掘削したら、のり面(斜面の事)の、捨てコン(基礎を作る前段階工程で、ある程度、平らにした基礎面に打設するコンクリートの事)から押さえてもらわにゃならん。 シート防水の、先防水工だ 」
「 工事の仕様書は、ありますか? 」
「 まだ、設計事務所から来てないな。 早急に、手配しておくよ 」
幸二も、紙コップに注がれた緑茶を飲む。
有田は追伸した。
「 その現場なんだがね… 小田原の瑠璃町なんだよ 」
「 …え? 」
紙コップを傾ける、幸二の手が止まった。
有田は、空になった自分の紙コップに、緑茶を注ぎながら言った。
「 確か、村さんは、瑠璃の出身とか? 」
「 え… ええ。 実家があります。 まあ、1人暮らしなので、ここに来てからは、1度も帰ってませんけど…… 」
有田は言った。
「 最初、現場の場所を聞いて思ったんだよ。 そうだ、村さんに来てもらおう、ってね 」
笑いながら答える、有田。
家族がいない為、実家の、あのアパートの事は、すっかり忘れていた。
瑠璃町の事も……
懐かしい瑠璃の名前を聞いた幸二の脳裏に、女性の声が甦る。
『 この街が、好きなんです 』
……あゆみの声だ。
( 今頃、どうしているのだろう。 もしかしたら、あの茶髪男と結婚したのかな )
幸二は、名前を忘れた、あの若い男の事を思い出していた。
その後も、有田は、幸二に話し掛けて来たが、幸二の方は半分、上の空だった。
『 長期の出張工事に行ってくれないか? 』
社長から、そう言われた幸二は、何の躊躇も見せず、あの街を出た。
一時は、あゆみが好きと言った、あの街に住む決心をした幸二。 しかし、街角で偶然、あゆみに出逢ったあの日以来、幸二の心の中には、忘れかけていた愛おしさと刹那さが同居し始めて来たのだ。
どうする事も出来ない状況。出口の無い、切ない片思い……
本当の自分を伝えたい気持ちと、それを打ち消す、もう1人の自分……
その葛藤から、幸二は、逃れたかったのだ。
現実から逃げるように、幸二は、あの街を出た。
……あれから、1年半。
任された仕事を遂行する為に、幸二は、一生懸命に働いた。 現実の忙しさをもって、追憶の片鱗を、心の片隅へ押し流していたのだ。 あゆみの事を、考えないように……
あっという間に、月日は経って行った。
( あゆみちゃん…… )
もう、幸二の事など、忘れているかもしれない。
『 どうして…… どうして、行ってしまうの? 』
あの時の、悲しそうなあゆみの声が、再び、脳裏に甦る。
あゆみの方も、あの日、名乗らずに消えた幸二の心情を察したかもしれない。 逢ってはいけない、逢えない理由があるのだと……
( あの日、黙って去ったのは、悪い事をしたかもな。 一言、挨拶をして、もう逢えないと言っておいた方が、良かったのかも )
今となっては、どうする事も出来ない。
あゆみの記憶から、消し去られている自分……
( そうなっている事が、一番いい )
幸二は、そう思った。
……再び、あゆみのいる街に帰る……
複雑な心境の幸二だった。
日焼けした赤ら顔から銀歯をむき出しにしながら、その男は、幸二に言った。
風呂上りの髪をタオルで拭きつつ、幸二が答える。
「 今日は、やめとくよ。 業務日報も書いてないし 」
男は言った。
「 そげなモン、明日、帰る時に、車の中で書けばよか。 今日は、楽しいトコに行くばい。 今夜が最後ぞ? 」
幸二は、笑いながら答えた。
「 ソッチの方も、遠慮しとくよ。 俺に構わず、楽しんで来てくれ 」
「 なんち、まあ… 固ブツじゃのう、村さんは 」
傍らにいた、ヒゲ面の男が言った。
「 村さんは、職長じゃきに。 オレらとは、責任っちゅうモンが違わい。 お前さんも、ちったあ~、村さんを見習わんか。 おお? 」
幸二が言った。
「 元来、俺は、ゲコでな。 あまり、酒も飲めん。 まあ、長期の出張工事も、明日が最後だ。 ハメを外し過ぎん程度に、楽しんで来てくれ 」
銀歯の男が言った。
「 ほじゃったら、出張ヘルスでも呼んでやろうか? たまには、女でも抱きたもんせ、村さん 」
ヒゲ面の男が言った。
「 アホか、お前。 飯場に女を呼ぶなんて、聞いたコトねえぞ? 」
「 じゃっどん、酒もダメ、女もダメじゃ… ワシだったら生きて行けんばい 」
「 おめえを基準に、物事、考えるんじゃねえよ。 村さんには、理性ってモンがあんだよ 」
「 辛い、理性よのお~… 」
作業員の男たちは、車で10分ほど行った所にある温泉街へ、ぞろぞろと出掛けて行った。
ここは、長野県の山間……
自治体が手掛ける治水事業の一環であるダム工事の建設現場だ。
幸二は、地元の工務店などから雇い入れた作業員たちと共に、約1年半、ここにいる。
ダム本体の躯体は、ほぼ出来上がり、最近は防水工事ではなく、もっぱら、水路などで発生した漏水の止水工事に従事していた。
その工事も、明日で終了だ。
空と山しかない、人里離れた現場……
最初、静かな環境を気に入っていた幸二だったが、そろそろ、人恋しくなって来ていた。
( 土工の連中も、躯体が出来た頃から段々といなくなって… 今は職員も、当初の半数以下だもんな。 事務所や飯場も寂しくなるワケだ )
幸二は、寝泊りしている飯場の2階へ上がると、日報をつけ始めた。
ふと、横の窓から駐車場を見ると、隣の事務所から、幸二のいる飯場の方へ歩いて来る人影が確認出来る。
工事長だ。
「 村さ~ん、いいかね~? お邪魔しても 」
幸二の方に手を振りながら、工事長は言った。
窓を開け、答える幸二。
「 工事長~ みんなと、飲みに行ってたんじゃないんですかぁ~? 」
やめてくれ、と言うようなゼスチャーを返す、工事長。
幸二は言った。
「 散らかってますが、どうぞ~ 」
「 やあ、済まんね、夜分に 」
ペットボトルに入った緑茶と、茶菓子を持って、工事長は来た。
「 実は、頼み事があってね…… 」
工事長は、有田と言う名前で、請け元JVの職員だった。 幸二と同じ、単身赴任である。歳は、50代前半。 大学時代に知り合った奥さんと、27歳の会社員の息子、24歳の、OLをしている娘さんを家族に持っている。
「 何でしょうか? 作業員たちが何か、粗相でもしましたか? 」
そう言う幸二に、有田は答えた。
「 いや、そんなコトじゃない。 …あ、菓子、食うかね? 」
有田が、おかきの袋を開けながら聞いた。
「 頂きます 」
おかきを1つ、口に入れながら、有田は言った。
「 実はね… ワシは、この現場の後、とある浄水場の建設現場に、所長として出向く事になってね 」
幸二も、おかきをつまみながら言った。
「 浄水場ですか。 補修で? それとも、改修ですか? 」
「 新規だよ。 規模は、かなりデカい 」
「 それは良かったじゃないですか。 しかも、所長さんで… おめでとうございます! 」
緑茶を、2つの紙コップに注ぎながら、有田は答えた。
「 有難う。 …実はね、そこの防水工事を、村さんのトコでやってもらいたいんだ。 今日、村さんトコの社長さんには、電話でお願いをしておいた。 ワシとしては、1年半、一緒にやって来た、村さんと組みたいんだよ。 気心が、知れてるからね 」
有り難い話しである。
社長としても、営業を掛けなくても、大型の仕事が受注出来たわけだ。 濡れ手に粟だった事だろう。
幸二は答えた。
「 それは、有難うございます。 社長も、喜んでいたでしょう? 」
「 まあね。 社長さんにも、村さんを職長として担当してくれるよう、頼んでおいたよ。 また1年ほど、ワシと一緒にやってくれるかね? 」
「 もちろんですよ、工場長! いや… 所長ですね 」
「 ははは。 ここにいる間は、工場長だよ 」
有田は、紙コップの緑茶を飲みながら言うと、続けた。
「 来週には、ここも、施主に引渡しだ。 事務所と飯場を解体撤去したら、ワシも所長と一緒に、ここを出る。 新しい現場は、来週末から入場する予定だ。 村さんも、施工式には出席してくれよ? 掘削したら、のり面(斜面の事)の、捨てコン(基礎を作る前段階工程で、ある程度、平らにした基礎面に打設するコンクリートの事)から押さえてもらわにゃならん。 シート防水の、先防水工だ 」
「 工事の仕様書は、ありますか? 」
「 まだ、設計事務所から来てないな。 早急に、手配しておくよ 」
幸二も、紙コップに注がれた緑茶を飲む。
有田は追伸した。
「 その現場なんだがね… 小田原の瑠璃町なんだよ 」
「 …え? 」
紙コップを傾ける、幸二の手が止まった。
有田は、空になった自分の紙コップに、緑茶を注ぎながら言った。
「 確か、村さんは、瑠璃の出身とか? 」
「 え… ええ。 実家があります。 まあ、1人暮らしなので、ここに来てからは、1度も帰ってませんけど…… 」
有田は言った。
「 最初、現場の場所を聞いて思ったんだよ。 そうだ、村さんに来てもらおう、ってね 」
笑いながら答える、有田。
家族がいない為、実家の、あのアパートの事は、すっかり忘れていた。
瑠璃町の事も……
懐かしい瑠璃の名前を聞いた幸二の脳裏に、女性の声が甦る。
『 この街が、好きなんです 』
……あゆみの声だ。
( 今頃、どうしているのだろう。 もしかしたら、あの茶髪男と結婚したのかな )
幸二は、名前を忘れた、あの若い男の事を思い出していた。
その後も、有田は、幸二に話し掛けて来たが、幸二の方は半分、上の空だった。
『 長期の出張工事に行ってくれないか? 』
社長から、そう言われた幸二は、何の躊躇も見せず、あの街を出た。
一時は、あゆみが好きと言った、あの街に住む決心をした幸二。 しかし、街角で偶然、あゆみに出逢ったあの日以来、幸二の心の中には、忘れかけていた愛おしさと刹那さが同居し始めて来たのだ。
どうする事も出来ない状況。出口の無い、切ない片思い……
本当の自分を伝えたい気持ちと、それを打ち消す、もう1人の自分……
その葛藤から、幸二は、逃れたかったのだ。
現実から逃げるように、幸二は、あの街を出た。
……あれから、1年半。
任された仕事を遂行する為に、幸二は、一生懸命に働いた。 現実の忙しさをもって、追憶の片鱗を、心の片隅へ押し流していたのだ。 あゆみの事を、考えないように……
あっという間に、月日は経って行った。
( あゆみちゃん…… )
もう、幸二の事など、忘れているかもしれない。
『 どうして…… どうして、行ってしまうの? 』
あの時の、悲しそうなあゆみの声が、再び、脳裏に甦る。
あゆみの方も、あの日、名乗らずに消えた幸二の心情を察したかもしれない。 逢ってはいけない、逢えない理由があるのだと……
( あの日、黙って去ったのは、悪い事をしたかもな。 一言、挨拶をして、もう逢えないと言っておいた方が、良かったのかも )
今となっては、どうする事も出来ない。
あゆみの記憶から、消し去られている自分……
( そうなっている事が、一番いい )
幸二は、そう思った。
……再び、あゆみのいる街に帰る……
複雑な心境の幸二だった。