瑠璃色の街
第12話、出逢いは突然に
「 幸ちゃん! 幸ちゃんじゃないかえ? 」
アパートの階段を登り切った所で、幸二は、声を掛けられた。
「 タエ婆さん! 久し振りだねえ~! 元気にしていたかい? 」
タエ婆さんは、幸二の両腕を掴みながら答えた。
「 おお~、幸ちゃん……! 突然、いなくなって、心配してたんだぞえ? 大家さんに聞いたら、家賃は毎月、振り込まれてるって言うから、どっかに出張してるんだとは思ってたけどのう。 …何か、腕っぷしが太くなったんじゃないかい? たくましくなったのう 」
「 長野の山奥に、ダムを作りに行ってたのさ。 えらい、山奥でさあ… 飯場の脇に、タヌキが出て来るんだぜ? 」
タエ婆さんは、目を細めながら言った。
「 おお~、そうかい、そうかい。 ダムをねえ~……! 」
「 今度、宮坂2丁目の国道脇に、浄水場を作るんだ。 来週から現場入りだよ。 それで、帰って来たんだ 」
タエ婆さんが、思い出しながら答える。
「 そう言えば、広報に、そんなコトが書いてあったかのう~… そうかね、今度は、浄水場を作るんかね。 やっぱり、幸ちゃんはエライのう~ 」
タエ婆さんの言葉に、アパートの鍵を出しながら、幸二は笑った。
鍵穴にキーを差し込み、開錠する。
…ふと、その手を止め、幸二は、思い出したように言った。
「 そう言えば、タエ婆さん… 前、言ってた、七宝の最後の1つ… 分かったよ? 年配の作業員に、教えてもらったんだ 」
「 ほ~う、何だって? 」
「 瑪瑙( めのう )だ 」
タエ婆さんが、ポンと手を叩く。
「 おう、そうじゃ! 瑪瑙じゃ。 思い出したわい 」
幸二は言った。
「 古くは、金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・珊瑚・瑪瑙だ。 でも、現在は一般的に、玻璃は琥珀( こはく )になって、金・銀・瑠璃・琥珀・硨磲・珊瑚・瑪瑙らしいね。 でも、玻璃・硨磲って… ナンだ? 」
タエ婆さんが答える。
「 玻璃ってのは、水晶の事さね。 硨磲は、貝殻じゃよ。 しゃこ貝ってのがあるじゃろ? でっかい貝じゃよ。 昔、宝飾品に使われとった、アレじゃ 」
「 へええ~… やっぱりタエ婆さんは、物知りだな 」
「 今頃、気付いたんかい? 」
タエ婆さんは、得意顔で言った。
…久し振りに入る、アパート。
郵便物やチラシが、郵便受けに、一杯になっていた。 入り切れず、扉の下にも、無数に落ちている。
それらを拾い集め、幸二は居間に入った。
どことなく、カビ臭い。
郵便物の束を食卓のテーブルの上に置くと、換気の為に、窓を開けた。
全て、一年前のままだ……
冷蔵庫は空にして電源を切っておいたので、幸二は、買って来たペットボトルを入れると、早速、冷蔵庫の電源を入れた。 食卓のテーブルと、上にある電球との間には、大きなクモの巣が張られている。
( まずは、掃除からだな )
押入れを開けて掃除機を出し、幸二は、部屋の掃除を始めた。
「 ? 」
テーブルに置いた郵便物の中に、メモらしいものが数枚あることに、幸二は気が付いた。
「 何だ・・? 」
掃除機を置き、他の郵便物と共に、そのうちの1枚を手に取る。 見ると、それはパソコンで打たれたような文字が、印字してあった。
『 また、伺います 』
「 保険の勧誘かな・・? 」
そのメモの、最後に印字してある文字に、幸二は、目を疑った。
『 あゆみ 』
「 ……! 」
幸二の手から、郵便物の束が、床に落ちた。
「 …ど、どうして… どうして、俺のアパートが分かったんだ……? 」
慌てて幸二は、郵便物の中から他のメモを探し、読んだ。
『 あゆみです。 お話しがしたくて 』
『 いつ、お帰りになるのですか? センターに連絡をください 』
『 また来週、伺います 』
「 …… 」
探すと、かなり沢山のメモが出て来た。
日付は、ほとんどが昨年のものである。 あの日の事が書いてあるものもあった。
『 先月、駅前でチラシを拾ってくださったのは、幸二さんですよね? 私を避けていらっしゃるようで、寂しいです。 お話しをして下さい。 また、伺います 』
最終メモの日付は、半年前のものだった。 それ以降の日付のものは無い。
…と言う事は、ここ半年は来ていない、と言う事らしい。
「 あゆみちゃん……! 」
どうして幸二のアパートが分かったのかは不明だが、あゆみは足繁く、このアパートに通っていたらしい。
…いじらしくも思える、あゆみの行動。
嬉しさと、懐かしさ……
また、この半年間は、訪ねて来ていないという事実に対する不安……
あゆみの身に、何か起こったのだろうか?
幸二の心は、急速に鼓動し始めた。
あゆみからのメモをテーブルに並べ、幸二は、しばらく考え込んだ。
( 逢いに行くべきか、行かないべきか…… )
『 また伺います 』
そう印字された1枚のメモを取り、幸二は、じっと見つめた。
そのメモは、随分と長く郵便受けに挟まっていたらしい。 メモ用紙の端が、黄色く変色している。 印字も、雨に濡れたのか、所々、にじんでいた。
別のメモを見る。
そのメモにも、薄くシミが出来ていた。 雨に濡れた跡だ。 郵便受けに挟まれていたと思われる、直線的な跡も付いていた。
( あゆみちゃん…… )
幸二は、無機質な印字から、あゆみの、切ない想いを感じ取る事が出来た。
あゆみは、純粋に、幸二に逢いたかったのだ……
幸二が、あゆみを避けていると言う事は、あゆみにも理解出来ていたらしい。 しかし、なぜ、幸二が自分を避けているのか…… その理由は、あゆみには分からない。
当然だろう。 だからこそ、あゆみは、幸二のアパートを訪ねて来ていたのだ。
( 理由は、言う訳にはいかない。 あゆみちゃんとの関係が壊れるとか… そんな、甘いコトじゃない。 人を信じた、その崇高な慈悲そのものが、覆されるんだ。 純真なあゆみちゃんに、そんな経験は… 断じて、させてはいけないんだ……! )
しかし、幸二の心は、揺れ動いていた。
目の不自由な体で、必死に、ここまで来ていた、あゆみ……
けなげな、その姿を想像すると、いてもたってもいられないような衝動に駆られる幸二だった。
( 本当は、今すぐ逢いに行き、この手に抱き締めたい…! )
幸二は、その日、暗くなるまで、あゆみの残したメモを見つめていた。
幸二のアパートから、自転車で15分ほどの所にある浄水場の現場。
交通費の節約にもなる為、幸二は、毎日、自転車で現場に出勤する事にした。 いわゆる、現場、直行直帰である。 会社には、週一度だけ出勤し、材料の発注や作業員のやりくりをする。 およそ1年、この生活が、続きそうだ。
忙しかったが、幸二は、満足していた。
……結局、あゆみには、逢いに行かなかった。
アパートへ、来なくなったのには、それなりの理由があるはずである。
諦めたのであれば、それでいい。
何か、身の上に起きたのでは? という不安もあったが、それを知ってどうなると言うのか……
どちらにせよ自分は、逢っては、いけないのだ。
幸二は、そう思う事にしたのだった。
浄水場の工事が始まって、2ヶ月くらいが経った。
現場は掘削が進み、掘り返した土砂を運搬するトラックが、引っ切り無しに出入りしている。 土工の数は、1日延べ300人。 土中に、矢板が打ち込まれ、地盤改良の為のグラウトが注入される。 構築の基礎となるピアの鉄筋を組む為に、先日からは、鉄筋工も入場して来た。 現場は、土木の最も忙しい活発な段階に入り、連日、活気付いている。
ある日の、昼休み。
幸二は、工程会議( 現場によっては、職長会議・昼の打ち合わせ等、さまざまな呼び方がある )に出る為、現場事務所に向かっていた。 あちこちの資材の上で、昼食を終えた作業員たちが、ヘルメットを枕に昼寝をしている。
各業種の職長たちは、会議がある為、自動的に昼休みが少なくなる。
幸二は、事務所の2階にある、会議室に入った。
( まだ、誰も来てないな )
特大のホワイトボードに、明日の予定・工事個所・人員・危険予知事項などを書き込む。
いつも座る席に腰を下ろし、幸二は、タバコに火を付けた。
やがて、ドカドカと階段を登って来る数人の足音が聞こえ、会議室のドアが乱暴に開けられた。
「 そんなん、聞いてねえぞっ? NTTのケーブル移動すんのに、どれだけ金掛かってると思ってんだ! 」
「 でも先方は、前から言ってあった、って言ってますよ? 明日、基礎コンを打設するそうです 」
「 ほしたら、オレらの機材、ドコへ持って行けってんだ、ああっ? 現場中、掘り繰り返して… ドコにも置くトコなんぞ、あれせんわっ! 沼田町の資材置き場まで移動しろってか? 仕事にならんわっ! 」
ドカッと、乱暴にヘルメットをテーブルに置く、土工の職長。 一緒に来たのは、若いJV( ジョイント・ベンチャーの略。 数社が協同して工事を行う場合の、元請の総称 )職員だ。
「 どうしました? 」
幸二が尋ねると、若い職員は答えた。
「 すぐ隣で、児童福祉施設の改築やってるでしょう? 空き地を借りて資材置き場にしていたんですが、駐車場にするから置いてある機材をどけてくれ、って言われましてねえ…… 」
土工の職長が言った。
「 鉄筋屋が、仕事を遅らせるから、イカンのじゃい! 雨くらい、なんだってんだ! 村さんトコの防水屋なら仕方ねえが… 気合入れて仕事せんかいっつ~の! 」
幸二は提案した。
「 ウチの資材置き場、貸しましょうか? 材料は、来週しか入って来ないし 」
若い職員が答える。
「 助かるなあ! いいんですか? 村さん 」
「 構いませんよ 」
土工の職長が言った。
「 優しいねえ~、村さんは。 よっしゃ、今度、ハイウォッシャー掛ける時、言ってくれよ? ウチの連中にやらせるでな! 」
現場は、コミュニケーションが大切だ。 貸しを作っておけば、あとで何かと便利である。
幸二は言った。
「 早速、このあと、機材を移動しましょうか? 丁度、ウチの24tラフター( 大型の移動式クレーンの事 )がありますから 」
「 助かるなァ、村さん。 オレんトコは、今日、ユニックしかねえから、何ともなんねえわ。 恩に着るぜ 」
青空に向かって、24tラフターが、クレーンを空高く上げる。 ラフターの黄色い色のクレーンが、青空をバックに鮮やかに映え、映像的だ。
クレーンの側面には、幸二が勤める会社の屋号が書いてあるが、実は、建機レンタル会社からのリースである。 4輪ともハンドルの切れるラフターは、狭い現場内でも器用に移動出来、アウトリガーを出して、一度固定すれば( 現場では『 座る 』と言う )、半径、数10メートル程の重量物の移動が可能だ。 この現場の為に、社長が奮発して借りてくれたのだ。
「 村さん。 まずは、パレットに入ってるキャンバーやジャッキから移動しよう 」
ラフターのオペレーターが、幸二に提案した。
幸二は、資材置き場を指差しながら言った。
「 そうだな。 …あそこに、ウチの資材があるのが分かるか? 来週使うから、その向こうに置いてくれ 」
「 了ぉ~解っ! 」
帯ロープが掛けられ、機材の移動が始まった。
防水工事現場の方は、昼前に、午後からの作業指示が出してある。 幸二は、しばらく、ここにいて移動作業を監視する事にした。
傍らにいた若い職員が、幸二に言った。
「 やっぱ、ラフターはいいね。 ユニックの、3倍は早い 」
幸二が答える。
「 ユニックは、手軽でいいんですけど、反面、事故が多いですからね。 よく現場で、転倒事故を起こしますよ 」
「 僕も、入社したての頃、実習で倒しそうになった事がありますよ。 気付いたら、アウトリガー、浮いちゃってて…! 」
「 あっという間に浮きますからねえ~、ユニックは 」
ネクタイをした1人の男性が、幸二たちに近付いて来て挨拶をした。
「 どうも~ すみませんねえ~ 」
児童福祉施設の職員のようである。
若いJV職員が答えた。
「 あ、どうも。すぐ片付けますので。 明日のコンクリ打設には、間に合いますよ? 」
「 そうですか、安心しました 」
「 どうやら私共、職員には、何にも連絡が入っていなかったみたいで… ご心配お掛けしました 」
もう1人、若い女性が、ジャッキのハンドルを数個手にしてやって来ると、若いJV職員に言った。
「 これ… 何かの部品ですよね? あちらに落ちてましたよ 」
「 あ、どうもすみません。 有難うございます 」
ハンドルを受け取りながら、若い職員が答えた。
何気なく、その女性を見た幸二は、息を呑んだ。
( あゆみちゃん…! )
思わず、幸二は叫びそうになった。
その女性は、紛れも無い、あゆみだったからである。
アパートの階段を登り切った所で、幸二は、声を掛けられた。
「 タエ婆さん! 久し振りだねえ~! 元気にしていたかい? 」
タエ婆さんは、幸二の両腕を掴みながら答えた。
「 おお~、幸ちゃん……! 突然、いなくなって、心配してたんだぞえ? 大家さんに聞いたら、家賃は毎月、振り込まれてるって言うから、どっかに出張してるんだとは思ってたけどのう。 …何か、腕っぷしが太くなったんじゃないかい? たくましくなったのう 」
「 長野の山奥に、ダムを作りに行ってたのさ。 えらい、山奥でさあ… 飯場の脇に、タヌキが出て来るんだぜ? 」
タエ婆さんは、目を細めながら言った。
「 おお~、そうかい、そうかい。 ダムをねえ~……! 」
「 今度、宮坂2丁目の国道脇に、浄水場を作るんだ。 来週から現場入りだよ。 それで、帰って来たんだ 」
タエ婆さんが、思い出しながら答える。
「 そう言えば、広報に、そんなコトが書いてあったかのう~… そうかね、今度は、浄水場を作るんかね。 やっぱり、幸ちゃんはエライのう~ 」
タエ婆さんの言葉に、アパートの鍵を出しながら、幸二は笑った。
鍵穴にキーを差し込み、開錠する。
…ふと、その手を止め、幸二は、思い出したように言った。
「 そう言えば、タエ婆さん… 前、言ってた、七宝の最後の1つ… 分かったよ? 年配の作業員に、教えてもらったんだ 」
「 ほ~う、何だって? 」
「 瑪瑙( めのう )だ 」
タエ婆さんが、ポンと手を叩く。
「 おう、そうじゃ! 瑪瑙じゃ。 思い出したわい 」
幸二は言った。
「 古くは、金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・珊瑚・瑪瑙だ。 でも、現在は一般的に、玻璃は琥珀( こはく )になって、金・銀・瑠璃・琥珀・硨磲・珊瑚・瑪瑙らしいね。 でも、玻璃・硨磲って… ナンだ? 」
タエ婆さんが答える。
「 玻璃ってのは、水晶の事さね。 硨磲は、貝殻じゃよ。 しゃこ貝ってのがあるじゃろ? でっかい貝じゃよ。 昔、宝飾品に使われとった、アレじゃ 」
「 へええ~… やっぱりタエ婆さんは、物知りだな 」
「 今頃、気付いたんかい? 」
タエ婆さんは、得意顔で言った。
…久し振りに入る、アパート。
郵便物やチラシが、郵便受けに、一杯になっていた。 入り切れず、扉の下にも、無数に落ちている。
それらを拾い集め、幸二は居間に入った。
どことなく、カビ臭い。
郵便物の束を食卓のテーブルの上に置くと、換気の為に、窓を開けた。
全て、一年前のままだ……
冷蔵庫は空にして電源を切っておいたので、幸二は、買って来たペットボトルを入れると、早速、冷蔵庫の電源を入れた。 食卓のテーブルと、上にある電球との間には、大きなクモの巣が張られている。
( まずは、掃除からだな )
押入れを開けて掃除機を出し、幸二は、部屋の掃除を始めた。
「 ? 」
テーブルに置いた郵便物の中に、メモらしいものが数枚あることに、幸二は気が付いた。
「 何だ・・? 」
掃除機を置き、他の郵便物と共に、そのうちの1枚を手に取る。 見ると、それはパソコンで打たれたような文字が、印字してあった。
『 また、伺います 』
「 保険の勧誘かな・・? 」
そのメモの、最後に印字してある文字に、幸二は、目を疑った。
『 あゆみ 』
「 ……! 」
幸二の手から、郵便物の束が、床に落ちた。
「 …ど、どうして… どうして、俺のアパートが分かったんだ……? 」
慌てて幸二は、郵便物の中から他のメモを探し、読んだ。
『 あゆみです。 お話しがしたくて 』
『 いつ、お帰りになるのですか? センターに連絡をください 』
『 また来週、伺います 』
「 …… 」
探すと、かなり沢山のメモが出て来た。
日付は、ほとんどが昨年のものである。 あの日の事が書いてあるものもあった。
『 先月、駅前でチラシを拾ってくださったのは、幸二さんですよね? 私を避けていらっしゃるようで、寂しいです。 お話しをして下さい。 また、伺います 』
最終メモの日付は、半年前のものだった。 それ以降の日付のものは無い。
…と言う事は、ここ半年は来ていない、と言う事らしい。
「 あゆみちゃん……! 」
どうして幸二のアパートが分かったのかは不明だが、あゆみは足繁く、このアパートに通っていたらしい。
…いじらしくも思える、あゆみの行動。
嬉しさと、懐かしさ……
また、この半年間は、訪ねて来ていないという事実に対する不安……
あゆみの身に、何か起こったのだろうか?
幸二の心は、急速に鼓動し始めた。
あゆみからのメモをテーブルに並べ、幸二は、しばらく考え込んだ。
( 逢いに行くべきか、行かないべきか…… )
『 また伺います 』
そう印字された1枚のメモを取り、幸二は、じっと見つめた。
そのメモは、随分と長く郵便受けに挟まっていたらしい。 メモ用紙の端が、黄色く変色している。 印字も、雨に濡れたのか、所々、にじんでいた。
別のメモを見る。
そのメモにも、薄くシミが出来ていた。 雨に濡れた跡だ。 郵便受けに挟まれていたと思われる、直線的な跡も付いていた。
( あゆみちゃん…… )
幸二は、無機質な印字から、あゆみの、切ない想いを感じ取る事が出来た。
あゆみは、純粋に、幸二に逢いたかったのだ……
幸二が、あゆみを避けていると言う事は、あゆみにも理解出来ていたらしい。 しかし、なぜ、幸二が自分を避けているのか…… その理由は、あゆみには分からない。
当然だろう。 だからこそ、あゆみは、幸二のアパートを訪ねて来ていたのだ。
( 理由は、言う訳にはいかない。 あゆみちゃんとの関係が壊れるとか… そんな、甘いコトじゃない。 人を信じた、その崇高な慈悲そのものが、覆されるんだ。 純真なあゆみちゃんに、そんな経験は… 断じて、させてはいけないんだ……! )
しかし、幸二の心は、揺れ動いていた。
目の不自由な体で、必死に、ここまで来ていた、あゆみ……
けなげな、その姿を想像すると、いてもたってもいられないような衝動に駆られる幸二だった。
( 本当は、今すぐ逢いに行き、この手に抱き締めたい…! )
幸二は、その日、暗くなるまで、あゆみの残したメモを見つめていた。
幸二のアパートから、自転車で15分ほどの所にある浄水場の現場。
交通費の節約にもなる為、幸二は、毎日、自転車で現場に出勤する事にした。 いわゆる、現場、直行直帰である。 会社には、週一度だけ出勤し、材料の発注や作業員のやりくりをする。 およそ1年、この生活が、続きそうだ。
忙しかったが、幸二は、満足していた。
……結局、あゆみには、逢いに行かなかった。
アパートへ、来なくなったのには、それなりの理由があるはずである。
諦めたのであれば、それでいい。
何か、身の上に起きたのでは? という不安もあったが、それを知ってどうなると言うのか……
どちらにせよ自分は、逢っては、いけないのだ。
幸二は、そう思う事にしたのだった。
浄水場の工事が始まって、2ヶ月くらいが経った。
現場は掘削が進み、掘り返した土砂を運搬するトラックが、引っ切り無しに出入りしている。 土工の数は、1日延べ300人。 土中に、矢板が打ち込まれ、地盤改良の為のグラウトが注入される。 構築の基礎となるピアの鉄筋を組む為に、先日からは、鉄筋工も入場して来た。 現場は、土木の最も忙しい活発な段階に入り、連日、活気付いている。
ある日の、昼休み。
幸二は、工程会議( 現場によっては、職長会議・昼の打ち合わせ等、さまざまな呼び方がある )に出る為、現場事務所に向かっていた。 あちこちの資材の上で、昼食を終えた作業員たちが、ヘルメットを枕に昼寝をしている。
各業種の職長たちは、会議がある為、自動的に昼休みが少なくなる。
幸二は、事務所の2階にある、会議室に入った。
( まだ、誰も来てないな )
特大のホワイトボードに、明日の予定・工事個所・人員・危険予知事項などを書き込む。
いつも座る席に腰を下ろし、幸二は、タバコに火を付けた。
やがて、ドカドカと階段を登って来る数人の足音が聞こえ、会議室のドアが乱暴に開けられた。
「 そんなん、聞いてねえぞっ? NTTのケーブル移動すんのに、どれだけ金掛かってると思ってんだ! 」
「 でも先方は、前から言ってあった、って言ってますよ? 明日、基礎コンを打設するそうです 」
「 ほしたら、オレらの機材、ドコへ持って行けってんだ、ああっ? 現場中、掘り繰り返して… ドコにも置くトコなんぞ、あれせんわっ! 沼田町の資材置き場まで移動しろってか? 仕事にならんわっ! 」
ドカッと、乱暴にヘルメットをテーブルに置く、土工の職長。 一緒に来たのは、若いJV( ジョイント・ベンチャーの略。 数社が協同して工事を行う場合の、元請の総称 )職員だ。
「 どうしました? 」
幸二が尋ねると、若い職員は答えた。
「 すぐ隣で、児童福祉施設の改築やってるでしょう? 空き地を借りて資材置き場にしていたんですが、駐車場にするから置いてある機材をどけてくれ、って言われましてねえ…… 」
土工の職長が言った。
「 鉄筋屋が、仕事を遅らせるから、イカンのじゃい! 雨くらい、なんだってんだ! 村さんトコの防水屋なら仕方ねえが… 気合入れて仕事せんかいっつ~の! 」
幸二は提案した。
「 ウチの資材置き場、貸しましょうか? 材料は、来週しか入って来ないし 」
若い職員が答える。
「 助かるなあ! いいんですか? 村さん 」
「 構いませんよ 」
土工の職長が言った。
「 優しいねえ~、村さんは。 よっしゃ、今度、ハイウォッシャー掛ける時、言ってくれよ? ウチの連中にやらせるでな! 」
現場は、コミュニケーションが大切だ。 貸しを作っておけば、あとで何かと便利である。
幸二は言った。
「 早速、このあと、機材を移動しましょうか? 丁度、ウチの24tラフター( 大型の移動式クレーンの事 )がありますから 」
「 助かるなァ、村さん。 オレんトコは、今日、ユニックしかねえから、何ともなんねえわ。 恩に着るぜ 」
青空に向かって、24tラフターが、クレーンを空高く上げる。 ラフターの黄色い色のクレーンが、青空をバックに鮮やかに映え、映像的だ。
クレーンの側面には、幸二が勤める会社の屋号が書いてあるが、実は、建機レンタル会社からのリースである。 4輪ともハンドルの切れるラフターは、狭い現場内でも器用に移動出来、アウトリガーを出して、一度固定すれば( 現場では『 座る 』と言う )、半径、数10メートル程の重量物の移動が可能だ。 この現場の為に、社長が奮発して借りてくれたのだ。
「 村さん。 まずは、パレットに入ってるキャンバーやジャッキから移動しよう 」
ラフターのオペレーターが、幸二に提案した。
幸二は、資材置き場を指差しながら言った。
「 そうだな。 …あそこに、ウチの資材があるのが分かるか? 来週使うから、その向こうに置いてくれ 」
「 了ぉ~解っ! 」
帯ロープが掛けられ、機材の移動が始まった。
防水工事現場の方は、昼前に、午後からの作業指示が出してある。 幸二は、しばらく、ここにいて移動作業を監視する事にした。
傍らにいた若い職員が、幸二に言った。
「 やっぱ、ラフターはいいね。 ユニックの、3倍は早い 」
幸二が答える。
「 ユニックは、手軽でいいんですけど、反面、事故が多いですからね。 よく現場で、転倒事故を起こしますよ 」
「 僕も、入社したての頃、実習で倒しそうになった事がありますよ。 気付いたら、アウトリガー、浮いちゃってて…! 」
「 あっという間に浮きますからねえ~、ユニックは 」
ネクタイをした1人の男性が、幸二たちに近付いて来て挨拶をした。
「 どうも~ すみませんねえ~ 」
児童福祉施設の職員のようである。
若いJV職員が答えた。
「 あ、どうも。すぐ片付けますので。 明日のコンクリ打設には、間に合いますよ? 」
「 そうですか、安心しました 」
「 どうやら私共、職員には、何にも連絡が入っていなかったみたいで… ご心配お掛けしました 」
もう1人、若い女性が、ジャッキのハンドルを数個手にしてやって来ると、若いJV職員に言った。
「 これ… 何かの部品ですよね? あちらに落ちてましたよ 」
「 あ、どうもすみません。 有難うございます 」
ハンドルを受け取りながら、若い職員が答えた。
何気なく、その女性を見た幸二は、息を呑んだ。
( あゆみちゃん…! )
思わず、幸二は叫びそうになった。
その女性は、紛れも無い、あゆみだったからである。