貯金500万円の使い方
体育館を出ると、生暖かい風に出迎えられた。
遠くの方に見える木の茂みは、ゆさゆさとその葉を揺らし、不気味な風音を立てていた。
空を仰げば、先ほどまで真夏の青空だったのに、その青を少しも残さない鈍色の雲が広がっている。
体育館から離れた場所にある自転車置き場まで来た時には、僕も舞花も小さく息が上がっていた。
「舞花、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
気まずそうに僕から目をそらして言う舞花の様子を見て、僕はようやくはっとなって手を離した。
しばらくの沈黙があって、先に声を発したのは舞花だった。
「林田君と、何かあったの? 人、結構集まってたけど」
「いや、何も。練習がちょっと長引いただけ。ごめん、行くの遅くなって」
僕はそう言いながら舞花の一歩前に出る。
自分が今どんな顔をしているかわからない。
鼻息で何とか気持ちと呼吸を落ち着けるのが精いっぱいだった。
さっきまで舞花の手を握っていた僕の右手が、小刻みに震えている。
その手を、ぎゅっと握った。
「舞花さあ……」
「ん?」
「今、好きな人とか、いるの? 付き合ってる人とか」
その質問の答えは、しばらく待っても返ってこなかった。
僕は握る手にさらに力を込めて、下唇をかんだ。
「舞花」
彼女の名前を呼ぶ自分の声に、僕は意識的に耳を傾けた。
そして、次に自分の口から放たれる言葉を待った。
「好きだ」
自分の口から小さく放たれたその言葉に、僕は全然驚かなかった。
その言葉は、自分が思っていた以上に、冷静に、落ち着いて言えた。
僕はもう決めてたんだ。
体育館を出たら、舞花を迎えに行ったら、何を言おうか。
その気持ちは、俊平と投げ合っている間に固まっていたんだ。
あんな投げ方をしたのは、ただ早く終わらせたかっただけだ。
早く終わらせて、舞花のところへ行きたかったからだ。
早く迎えに行きたかったからだ。
シュートが入ろうが外そうが、もうどっちでもよかった。
だって、たとえシュートを外していたとしても、僕は舞花に気持ちを伝えにいったから。
俊平よりも先に。
俊平よりも早く。
ルール違反で、ズルくて、全然フェアじゃないけど。
僕は俊平みたいに自分に自信もないし、カッコよくもない。
だけど、舞花だけは、もう手放したくなかった。
弱くてもカッコ悪くても、舞花に「カッコイイ」って言ってもらえなくても。
僕は、舞花のそばにいたい。
もう、誰にも舞花に近づいてほしくない。
誰にも触れてほしくない。
舞花にも、他の男のことなんて見てほしくない。
僕だけを見てほしい。
僕だけの舞花でいてほしい。
僕が、舞花を守りたい。
だって僕は、舞花のことが好きだから。
舞花の方に振り返ると、舞花の見開いた目と合った。
その瞳に向かって、僕はもう一度力強く言った。
「俺、舞花のこと、好きだ」
舞花も、僕と同じ気持ちであってほしい。
願うのは、ただそれだけだった。
だけど、舞花の瞳の色が、どんどん褪せていくのを僕は見逃さなかった。
その瞬間、僕の胸が急に嫌な動きを始める。
舞花の口元からふっと笑いが漏れる音が、風に混じって聞こえた。
「えっと、ごめん。私、遠距離恋愛とか無理なんだよね」
「え?」
舞花は逃げるように後ずさって、僕から距離を取った。
そしておかしそうに話を続けた。
「好きな人とは毎日会いたいし、ずっと一緒にいたいタイプだから」
話す間、舞花は僕と目を合わせようとしなかった。
だけど僕は、引き下がらなかった。
もう一度、舞花をつかまえに行くように、食い下がる。
「遠距離ってほどの距離でもなくない?」
「毎日会えないのは遠距離でしょ?
学校も違うし、電車で三駅なんて、立派な遠距離だよ。それに……」
そこで言葉を切って、舞花は震える声で続けた。
「私、もうすぐいなくなっちゃうんだよ」
その言葉に、なぜか胸の辺りがズキンとなった。
「それは……もうすぐ、帰るってこと?」
他には、もっと遠くに引っ越すとか?
会えないくらい遠くに行ってしまうとか?
あとは……
舞花は何も答えない。
うるさく鳴く蝉の声だけが、僕の質問に答えてくれる。
蝉の声は、次第に大きくなって、それが、僕の胸を余計ざわつかせる。
「舞花?」
冷たい汗が首筋や背中を走っていく。
何だろう、この嫌な予感は。
「舞花……」
強く言い放ったその時、冷たくて痛い風が僕の胸を刺すように吹き抜けて、そこに舞花の声が混ざった。
「私ね、18歳まで生きられないの」
「……へ?」
木々たちが突然吹き荒れて蝉の声までさらっていく。
その風が、僕たちの間に流れる嫌な空気をかき混ぜる。
「余命宣告ってやつ」
「余命……?」
舞花は歩きながら自分の病気のことについて僕に話してくれた。
だけど、その説明も、どの言葉も、一言も僕の耳には入ってこなかった。
__「私ね、18歳まで生きられないの」
その舞花の言葉で、僕の時間も思考も歩む足さえも止まっていた。
遠くの方で学校のチャイムの音が聞こえる。
その時、僕の頬に大粒の雨がすとんと落ちてきた。
次第に目の前の地面を、丸い跡が点々と模様をつけていく。
いつの間にか、舞花の背中が遠ざかっていた。
僕はそれをぼんやりと見た。
振り返った舞花は、笑っているのに、その表情は歪んで見えた。
「私の将来はね、あと5年も6年もないんだ」
舞花の声はなぜか力強く聞こえて、だけどそんな声さえ、がさがさと葉が擦れ合う不気味な音が掻き消そうとしていく。
風が吹き去っていくと、一瞬静かになった空気の中で、舞花は僕が先ほどまで握っていたほうの手を小さく上げて笑った。
「じゃね」
それだけ言って舞花は僕に再び背中を向けた。
雨粒は走り去る舞花にも、ポツンと取り残された僕の体にも、容赦なく打ち付け始めた。
走り去る舞花の背中が、ぐんぐん小さくなっていく。
校舎の陰に消えてしまってからも、僕は舞花の軌跡をたどっていた。
「また明日」はなかった。
明日の約束は、しなかった。