嘘は溺愛のはじまり
役員室へと立ち去ろうとする伊吹さんに頭を下げる。
いち、にい、さん……ゆっくりと、数を数えて……。
野村さんが頭を上げる気配がして、私もゆっくりと頭を上げた。
……はぁ。
「……若月ちゃん。さっきの専務、見た?」
「……え?」
「専務はさー、もしかするとー」
「?」
「……若月ちゃんのことが好きなんじゃないのかなぁ?」
「は、い……!?」
野村さんはニヤニヤと笑っている。
何をどうやったら、その結論になるんだろう!?
「だってさー、さっきの、若月ちゃんを見る専務の表情……。ふふふっ」
「え、えっ? あの、意味が、」
「な~んかさぁ、愛おしそ~に若月ちゃんのこと見てたよー???」
「……そんなことは、ないと思いますっ」
「いやいやいや。あると思いますー」
野村さんは嬉しそうにニヤニヤしながら私を見ているけど……。
残念ながらそれだけは、ないんです、野村さん。
私と伊吹さんの関係は、ただの同居人ということだけ。
それ以外の事実は、本当に残念なことに、何もない。
「ないですよ」
私がそう言っても、野村さんは全く納得していないようだった。
野村さんはどうしていつも私の言葉に納得してくれないんだろう?
そんなに説得力が無いんだろうか。
またしても野村さんに理解してもらえないまま、私たちは仕事を再開した――。
――伊吹さんは私の事なんて何とも思っていない。
それを証明するような出来事に遭遇することになるなんて、この時の私は、まだ知らない……。