嘘は溺愛のはじまり

どこかで携帯のバイブレーションが聞こえる。

きっと、伊吹さんの携帯だ。


「……ごめん。俺の携帯だ」


私が頷くと、伊吹さんが電話に出た。


「……はい。いや、今日は……、……分かりました、戻ります」


伊吹さんは“専務取締役”だ。

大事な仕事中に、私なんかに構っていていいわけがない。


「ごめん、結麻さん。一緒にいてあげたいけど……戻らなきゃいけなくなった」

「大丈夫です。私こそ、ごめんなさい、手を煩わせてしまって……」

「いや、それはいいんだ。それより……ひとりで大丈夫? 誰か寄越そうか?」

「いえ、大丈夫です」

「……やっぱり心配だから、母にでも、」

「あのっ、大丈夫です」


まさか、伊吹さんのお母様に迷惑をかけるわけにはいかない。

私は慌てて首を左右に振る。


「なるべく早く帰るから、寝ていてね? 何か必要なものがあれば、1階のコンシェルジュに頼んでいいから」

「……分かりました」


その後も、何度も私を心配する言葉を私に投げかけながら、秘書の笹原さんの迎えの車で会社へと戻って行った。


「……はぁ」


ベッドに座り、思わず安堵のため息を吐く。


――これから、どうしよう……?

このままで良いわけがない。

私がこのままここにいて良いとは、ますます思えなくなってしまった。

こんなこと、もう自分自身が耐えられない。

もう誰も、私の最低な部分に巻き込みたくはないから……。


私はそろりとベッドから降り、意を決してクローゼットの前に立った――。


< 166 / 248 >

この作品をシェア

pagetop