嘘は溺愛のはじまり
わけが分からずグルグルと考えていると、いつの間にかすぐ隣までやって来ていた伊吹さんにギュッと抱き締められた。
「……っ」
「どうして勝手に出て行ったの」
「あ、の……」
「楓が偶然見かけてなかったら、どうなってたか……」
「伊吹さん、わたし、」
「結麻さん。帰ろう」
伊吹さんの言葉に、私は首を横に振る。
帰れない。
私は、もう、伊吹さんとは一緒にいられない。
だって……
「どうして?」
「……」
「理由がないなら、帰れるよね?」
私が無言で小さく首を振ると、伊吹さんは「なんで?」と言って私の顔をじっと覗き込んだ。
「……だって、伊吹さんには……」
私を見つめる伊吹さんの瞳に、私の揺れる瞳が映っている。
言葉にしたら、きっと、私の瞳を揺らしている正体が溢れ出てしまう。
「伊吹さんには……、婚約者がいる、から……」
ギュッと目を瞑ると、やっぱり目の端からほんの少し涙が零れ出て、頬の真ん中らへんで止まった。
「え? は? 婚約者……?」
そう声に出したのは、伊吹さんではなくて、楓さんだ。
「ええ? 意味分かんないんだけど。伊吹、いつ誰と婚約したの?」
「してない」
「だよね? するなら結麻ちゃんとでしょ?」
「当たり前だ」
……え?
ふたりの会話に驚いて、パチリと目を開けて顔を上げると、眉間に皺を寄せた伊吹さんが私を見つめていた。
伊吹さんが私の頬で止まったままの涙を、長くて綺麗な指でそっと拭う。