嘘は溺愛のはじまり
「…………移動用の内線があるんだけど、そっちにかけて、って言っておいて。それで分かるから」
かなりたっぷりと沈黙した後、彼はそう私に告げた。
移動用の、内線……?
小さな印刷所でしか働いたことがないから、未だに色々と新しい事が出て来て、驚きと関心の連続だ。
なるほど、内線も、携帯電話のように移動用のものがある、と……。
内線の番号が記された表に目をやると、人事部の欄の最後に、移動用の印と共に番号が記されていた。
私は慌てて「あ、これ、ですね」と答えると、「俺専用の番号だから」と言い添えられた。
「はい、分かりました。野村さんには明日一番にお伝えします」
「……よろしくお願いします」
私は了承の意を表すべく奥瀬くんに頭を下げる。
手元のメモに野村さんへのメッセージを書き始めたところで、奥瀬くんがまだこのフロアから立ち去らないことに気づき、メモから顔を上げた。
奥瀬くんはじっと私を見ていて……。
「……あの、」
「若月。今日この後、何か用事ある?」
「えっ。いえ、ないです、けど、」
「ちょっと話したいことがある」
「え? あ、はい、えっと……」
「専務は、今日は……?」
「あ、明後日までシンガポールに出張で……」
「じゃあ食事に行こう。下で待ってる」
「え、ええっ?」
突然の食事の誘いを受けて私がオロオロしている間に、奥瀬くんはエレベーターの扉奥へと消えて行ってしまった。