何も言わないで。ぎゅっと抱きしめて。
「ううん。冗談だよ。気にしないで」
しばらく歩きながら些細な会話をして五分程で電話を終えると、どうしようもない虚しさと寂しさが私を襲う。
覚えているわけないとは思っていたけど。
実はうっすらとでも頭の片隅にはいてくれるのでは、なんてありもしない期待はどうやら期待止まりだったよう。
やっぱりあれは、私のことを汐音ちゃんと勘違いしていたのかなあ。もしかしたら、夢の中と思ってたとか。いや、それは無いか。
でも、だったらやっぱり私の名前なんて呼ばないでほしかった。
あの時と矛盾した気持ちが、じわじわと心の中を黒く染めていく。
それに支配されないうちに顔を横に振り、家に向かってまた足を進めた。
「……転勤するって、言えなかったなぁ……」
恨めしいほど綺麗な月を見上げて、ため息を一つぶつけた。