さよならとつぶやいて、きみは夏空に消えた
 肺が引き絞られるように痛いけれど、透は全力疾走したあとのように思い切り息を吸い込んだ。

 助かった。助かったんだ……。

『蛍』

 思わぬ窮地からの生還を笑って祝おうと蛍を探すが、そこに少女の姿はなかった。

『蛍……?』

 赤い運動靴だけが、ぽつねんと草むらの中に置き去りにされていた。





 透が大人に助けを求めたのは、彼女が流されてから二時間以上経った昼時だった。

 蛍がいないということの意味を、幼い少年は理解できなかった。しばらく呆然として立ち尽くしたあと、もしかしたら蛍は藪の中か土手の向こう側に隠れて透を脅かそうとしているのかと思って、あちこち探しまわった。

 けれど、いない。
 先に帰ってしまったのかもしれない。急にお腹が空いたのかも。
 ……透を残して? 靴も履かずに?

 どす黒い不安が小さな胸の奥にたまっていくが、どうしてもそれを認められなかった。透が祖母に蛍のことを相談したのは、祖母の作った素麺を食べ終えて麦茶を飲んでいる時だった。

『蛍、もう家に帰ってるよね? 僕、蛍を置いてきちゃったかな?』

 祖母はその場で蛍の祖父母に電話をした。
 蛍は帰っていなかった。
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